見出し画像

服に値段がない世界

「服がある」「服が売っている」

この2つの文の意味は似ているようで異なる。「服がある」はすぐに服を着られる状態だが、「服が売っている」はすぐに購入できる人には大差ないが、金銭的余裕のない人には服が着られない危機的状態も含むことになる。

世の中で売られているモノから値段が消えたらどんな世界になるだろう。「商品」という概念でモノが製造されなくなった世界。

15年前に百貨店で洋服の販売員をしていた頃の私は、セールで”在庫処分”されていく洋服たちをいたたまれない気持ちで見ていた。
もしこれらが全て無料で、本当の意味で百貨店が国民の大きなクローゼットだったら、経営を回すためだけの大量生産や処分はされないのではないだろうかと本気で考えていた。

「商品」の概念が消えた世界。
朝食は近所のカフェで無料のコーヒーやパンを食べ、クリーニング屋で仕上がったスーツをお礼だけ言って持ち帰り、寒くなれば洋服屋で今年必要な枚数だけセーターを選び、家のお風呂のように銭湯の湯船に浸かる世界。

広告の消えた世界は、今の世界とはまったく別物になるだろう。

「商品」の概念が消えれば「商売」の概念も消える。ともすると、シビアに守ってきた安全性や研究開発の探究心も薄れるのだろうか。頑張るだけ損と怠けてしまうだろうか。

身内だけの得や見返りがないと感謝しない考えにそろそろ違和感を持つべきだと私は思う。”お金を稼ぐ人が偉い”という価値観はいまだに一定数存在するが、毎日過ごす空間を清潔にキープすることだって大変な苦労だし感謝されるべきだ。

「商品」の概念が消えれば今より選択肢は減るだろう。だがこれほど大量の選択肢が本当に必要だろうか。

洋服のシェアやリユースの流れは、どんどん盛んになってきている。

15年前に描いた百貨店が本当の意味で国民の大きなクローゼットになるのはまだ遠い話かもしれないが、こども食堂のように貧困や孤独を緩やかに解消するサービスは急速に増えた。今後はもっと貧困層や家庭のお母さん達を助けするサービスができてくるはずだ。

コロナ禍で家族の在り方が今まで以上に問われるようになった。労働、子育て、教育、納税、介護、また労働....すべてを家庭だけで抱えるのは荷が重すぎはしないだろうか。

洋服をシェアして、食事や空間をシェアして、活用する側も支える側も金銭以外でも救われる。
そんなモデルを本気で考えるタイミングにきている。


この記事が参加している募集

いただいたサポートは、より良い発信のための経験や勉強代にしていきます。