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ひきこもりの解決9(願いと 振り返り3)

社会復帰した娘の現在と、ひきこもり時代を思い出しながら綴っています。

現在 27歳

冬の寒さはまだまだ残っていますが、洋服が好きで、早や春物を重ね着して楽しむ娘。

娘には、長年のひきこもりの人たちに向けて、外へ出て居場所へ、そしてB型作業所へと、勇気を持って踏み出して欲しいという願いがあります。
苦しんだ分、当事者としてのリアルな感情を持っています。

最初の一歩を踏み出したところから、少しずつでも物事が進んでいった経験をしているので、一歩目になるかもしれないお手伝いをしたいと考えているようです。

娘は、家でじっと隠れていることにウンザリしながらも次へ踏み出せずにいる人には、まず、外に着て行く洋服が無い、と言います。
ある程度ちゃんとした見た目で、福祉の支援の相談窓口へ出かけていくための洋服がないことで、何となく勇気が出ず、ズルズルと先送りになってしまうと言います。

今ドキのセンスのわからない親に服を買ってきてもらう気にならないとか 苦笑、長く外に出ていないことで、正直自分でも何を選べば良いかよくわからないとか、

たった一着あることで、勇気が湧いて、それに背中を押されることもある。と言います。

今仕事で携わっている古着オークションサイトで、
そんな気づかれにくい悩みを抱える人のために洋服を激安コーディネートで提供し、ひきこもり脱却の手助けををしたいと考えているようです。

普通にシャツとジーンズ(チノパン)で良くない?と思いますが、そういうこととも違うようで、
少し自信をくれる服、ということのようです。

社会へ戻る行動まであと一息のところで止まってしまう人がいるなら、洋服と一緒に伝えたい思いもある。

私の思う以上に、娘には野心があって、何やら会社の上層部の方にそのプランを話し、耳を傾けてもらえた機会があったそうで、
いつか実現出来るなら良いなあと話しています。
与えられた仕事をこなしながら、
計画を温めておくそうです。

随分と立ち位置が変化したもので、A型作業所の利用者なんですが、気持ちは手助けしたい側に変わっています‥ 
でも、まだ完全に気が楽になったのではなくて、闘いながらもそんな心境になるようです。

それではまたここから、ひきこもり時代の続きを書きますね。

2012年 16歳
相談

一日中ベッドで寝ていることが殆どだった娘から、

もう、こんな生活を何とかしたい! お母さんどこかで相談して聞いてきて欲しい!! という強い訴えがあり、
私は精神保健センターを訪ねることにしました。
娘のタイミングでの差し迫った思いでした。

心理士さんとの面談の中で、質問されるがままに娘の子供時代の様子を話しましたが、

思春期の当時の様子だけでなく、生まれた頃から幼少期にまで遡って聞かれるとは、意外な気がしました。

「お母さん、発達障害って聞かれたことありますか?」

はぁ‥。
今ほど世間に発達障害という言葉は浸透していなくて、
ん?! それと何の関係が?!とキョトンとしました。

強いこだわりはなかったですか。
お友達とは遊びましたか。

ああ‥ 幼児の頃に滑り台で2〜3人が滑っているだけで、「混んでいる」と言って遊びたがらなかったり、
幼稚園が終わると、すぐに家に帰りたがったり。(私が遊ばせたがらないように見えるのは結構困った)

小学生時代に習っていたお絵描きでは、月1回の造形など自由課題のときには、
何もかもをハムスターに関する作品にしていて、(当時飼って可愛がっていた)
石膏ならハムスターの置物を作る。ドールハウスならハムスターの家にする。翌年のカレンダーならハムスターの絵柄でまとめる。
何もかも、オールハムスター、でした。

先生からの1年間の総評にも、
「〇〇ちゃんがハムスターを好きなことは、よーくわかりました〜」など書かれていて、
そういうあたりも発達障害の人に多く見られる、一つのものへの強い執着だったようです。
極端な一点集中型、そりゃあ成長とともに生きづらくなるのも不思議じゃない気がします。
興味の対象が狭く、深い子でした。

集団生活のストレスから不登校となり、罪悪感を抱きながら、何をどうすれば良いのかわからず、とにかくしんどい毎日。

何とか近くのショッピングセンターへ連れ出したこともありましたが、30分と居られない。
人のいる空間が耐えられない様子でした。

こんな状態に頭を抱えるばかりでしたが、
心理士さんからは、精神科の受診を勧められました。
まずは県立の精神病院を受診する患者に匹敵するかどうかの判定があるので、先に電話で病院に確認するように勧められ、問い合わせしたところ、それなら該当するので受診してくださいとの返事をもらって後日受診しました。

精神保健センターの窓口に置かれていたチラシに、
「ひきこもり当事者の親の会」とあるのが目に留まり、

明日は我が身、10年後にそうなっていないとは限らない‥とドキッとしたことを覚えています。
そこまでにはならないかと、まだ現実味はなく楽観視出来る頃だったとは思います。

当時は周りに娘の様子を話しても、
うちの子にも人嫌いなところがあるよ〜と、軽めに流されるか、
もっと自分に厳しくなって、ちゃんとしてくれないと困るね!と、不快感をあらわにされるか、で、理解されない。
家族だけが、小さな空間で問題と向き合うことになるんだなと思いました。

ちなみに私は、よそのひきこもり当事者の話を耳にすることすら、心の負担を余計に増やすことになると思ったので、ネットでも一切検索などはしませんでした。

精神科へ

受診して長い検査を受け、
自閉症スペクトラム障害との診断を受けました。
名前がつくような状況に驚きながら、投薬が始まり、第三者と共有できる安心感が湧いてきました。

今となれば、当時の長く苦しい、悶々とした日々がどのくらいだったのか時間の感覚がありません。思い出せないほど、ひたすら繰り返されるしんどい毎日でした。

ただ娘には、その頃は家族に理解はされているという安心感もあったのか、部屋にこもる関係性ではなくなっていて、可愛がっていたウサギの様子を見にリビングで過ごすなどしていました。

私は、趣味的な話題を書く生活ブログを励みにしながら、お菓子を作ったりカバンを縫ったり、好きな音楽にハマったりと、気を紛らわせてやり過ごしておりました。
重い内容も書きながら、趣味の話題の比重のほうが重かったです。笑

そういう意味では、苦しいだけの陰鬱なお母さんではなかったかなとは思います。
もし子供を腫れ物のように扱い、顔色に振り回される親ならば、むしろきっと更に子供を苛つかせ、そんなんだから自分はこんなんだ!と言われたかも知れません。
子供って情けない親は嫌いですし、
何しろ私は、逆算して自分の人生を生きている人間ですので、そこは割り切っていた気がします。 

理解不能な家族の問題は、恐らく全く別の位置づけで、
私は死ぬほど困っているー! 
辛い!!! 
と、課題として向き合っていたかもしれません。

夫は、仕事に就いたり、休職したり、退職したり、を繰り返す不安定な日常でした。
最初の受診の時は働いていなかったので、遠方の病院まで車に載せて行ってくれました。
父親としての自覚も以前よりずっと増して、行ける限りは連れて行ってくれるようになりました。

診察を受け、ここから改善に向けた日々がスタートしました。✨

つづく

次は思春期病棟への最初の入院について書きます。
今日も読んでくださってありがとうございます✨


癒やし担当〜茶色い天使?☺️

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