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自己紹介。多彩な🇯🇵🇺🇸人生

こんにちは。@hirokonishimuraです。昨晩地域の日本人を集めた新年会に参加したのですが、やっぱり自分の話となると、変な事ばっかり起こっているな。と実感したので、自己紹介も兼ねて書き留めてみることにしました。

幼少時代

西村寛子。平成元年産まれ。よく日系二世だと思われるけど実は京都出身の一世。7歳の時に父親の駐在で渡米。日本の小学校には一年生の夏休みまで通って引越し。3歳半したの妹がいる。

産まれた後は1年間泣き叫んで過ごし、一歳になった頃にやっと言葉を話し出して収まったそう。そこから語学能力だけはずば抜けていたらしい。運動神経0だけど。

幼稚園は友達たちは小学校お受験の為の学習幼稚園に通っていたところを、半日制の「遊ぶ」幼稚園に通い、お芋植えて掘ったり、泥んこになって遊んだり、一輪車に乗ってこけたりして過ごした。

地元の名門私立小学校にお受験するも、脳みそお花畑で見事に落ち、そのまま数ヶ月後には渡米。幼稚園の頃の家でのルールは「字を書かない。」だった。私が不器用だったからなのか、「字は小学校で描けるようになればいい。」という母の考えから、本は沢山読んでいたけれど、字は書かなかった。

母は絵も大人が「お手本」を描くのを嫌い、子供には自由に自分の絵を描かせる。という方針もあった。そのせいか、子供の頃は絵が市のコンクールとかに時々出て入賞していた。(個性的だったのね、多分。大人が手を入れていないからw)今となっては画力の「が」の字も見受けられない。

家が貧乏だったので、習い事はあまり出来なかったけれど、唯一水泳だけは2歳からずっと続けていた。母が体が弱かったので、運動には力を入れていて、出来るだけ運動させたい。との願いから。

小学時代

日本の小学一年生はアメリカの小学二年生なのだが、英語力0で渡米したので現地校の校長先生の「とてもいい先生が一年生にいるのだよ!」という計らいで学年を一つ落として一年生に入学。

アルファベットから習う現地校生活のスタート。そして同時に家では平仮名から習うホームスクール生活のスタート。日本とアメリカ両国の学習を0からはじめた。

両親はあまり英語が得意でなく、学校での宿題や科目はあまり助けれなかった。その代わり、母親が毎日欠かさず日本語教育に専念してくれた。そのお陰で7歳と3歳で渡米した私と妹は日本語が「普通」に話せる。私は読み書きも出来る。

小学生の低学年の頃は「算数なら英語が出来なくても出来る!」ということで、苦手科目だったがみっちり教え込まれ、算数だけはどんどんクラスランクが上がって行った。3年生の時に受けたGifted and Talentedプログラムのテストでも高得点が取れ、4年生からはGTプログラムに入れた。

英語はESOL(今ではESL)に入れてもらえたが、外国人がまだ少ないエリアと学校だったからか、週に一回か二回ESOLの先生が1時間英語を教えてくれるというようなものだった。それもやっぱり「Which one is the Apple?」とかから始まる。3年生でESOLを追い出され、それから普通に現地生徒として毎日を送った。

3年生に入った頃にReading関連のクラスでOn Grade Levelになり、5年生に入った頃にAbove Grade Levelのクラスに入れた。4年生で初めて英語で自分から小説を読んだ。ハリポタだ。

5年生になって勉強が出来るようになった頃に「頭が悪い子」「かわいそう」と接してくれていた同級生たちに急に見放され、いじめられっ子生活が始まる。

せっかくアメリカにいるので習い事も沢山させてもらえた(させられた?)。水泳の他に、バレー、モダン、アイススケート、など色々やってみて「3年は続けなさい」と言われ、大半を3年で辞めた。

中学時代

中学1年で鬱病診断。精神科医に通いだす。

アメリカの学校の女の子のカースト制度についていけず、友達も少なく、肩身が狭い感覚で3年間過ごす。なんだか物凄く凸凹が激しい好かれ方をする子供だったらしく、先生たちは私のことをとても好いてくれるか、大っ嫌いかにわかれた。可愛がってくれる先生はとても可愛がってくれて、私が嫌いな先生にはクラス替えまでさせられると言う嫌われよう。

学年の人気者(Queen Bees)からは馬鹿にされ、先生ともあまり良くいかず、「日本人」と言うアイデンティティーと「アメリカ人」と言うアイデンティティーがどんどんごちゃ混ぜになっていき、本当に自分ってどこにも「居場所」がないんだな。と思いながら鬱病と戦っていた。親もアメリカのカルチャーとは無縁なので、なんで成績が良いのに友達が出来ないのか解らず、とても辛かったと思う。

まあ、自分でも憎たらしくて全然可愛くない子供だったんだろうな、とは思う(笑)少しでも精神的に余裕がない大人にはとても嫌な存在だったようだ。

あまりにも印象が強いキャラなので、かわいそうな妹は私と同じ先生のクラスを受けると「おお。Little Hirokoが来た!」と毎回言われていたようです。良くも悪くも。

鬱で陰キャラでも成績は良く、クラスも ありったけのGT・Honorsクラスを受けていた。そしてリア充になれないので、その頃流行り出したネットにはまっていった。勿論電話回線を使ってのDial Upで繋ぐ。当初はネットに繋がるパソコンは家に一つで白黒スクリーンのノートパソコン。

でもすぐにカラーのパソコンも手に入れて、中学時代はHTMLやCSSで個人サイトやブログを作ってネットで友達を作ることにハマる。掲示板とかも凄く流行っていたなあ。私はアニオタサークルで活動していたので、同世代のアニオタ友達が増え、そこからネット廃人に。。。

精神的にはボロボロで、なんとか生き切った。と言う感じだった。本当に生きて卒業できたのが不思議なくらい毎日「死にたい」と思い続けた中学生時代だった。

小学校の3年生ではじめたバイオリンを続け、スポーツもまた色々試してみた。テニスや乗馬、縄跳び競技もやってみた。最終的に残ったのがテニスとバイオリン。この二つを高校卒業するまで続けた。

当初の駐在期間が終わり、駐在期間が延びたところで、両親が永住権の申請をはじめました。子供が「アメリカ人化」しすぎたので、これでは日本ではやっていけないと悟り、アメリカで教育を終わらせる決心をしたのです。

高校時代

高校入学と共に8年間続けていた日本語通信教育を辞めた。毎朝漢字の書き取りテスト。学校から帰ってきてから通信教育の科目。そして現地校の宿題に習い事。高校に入ると宿題や課題もめちゃくちゃ増えたので、もう両立が難しいと言うことで、日本の中学2年生として中退。中卒でもないのね、私。

でも中学2年まで漢字や通信教育を続けたことで、読み書きが出来るし、大体なことは理解出来る。ここまでやり遂げることが出来た母親に感謝です。私が親だったら絶対に8年も頑張れないと思う。

小学校、中学校同様オーケストラに入り、スポーツ部にも加入。秋にはクロスカントリー部。春にはテニス部。冬は家にこもってネット廃人。

高校入学と共に急に活発になり、色々文系クラブに入ったり、立候補したりした。中学とは変わり、学校も大きくなったので、ナードはナードなりにクラスが出来上がって、カーストもあまり目立たなくなり、中学時代よりは全然平和に過ごせた。

急な活発ぶりは高校2年生で躁鬱病と診断された。精神状態の上がったり下がったりを何回もループしていくうちに、薬も増え、どんどん「フラット」な人間になっていった。躁鬱病の薬はいつでも人格を「ちょっとだけ鬱病」で保っているものらしい。ので、私はいつでも「ちょっとだけ鬱病」だった。後、この「躁鬱病」だと思われていた症状が実は脳にある血管病であると判明するのだけど、その診断がくるのは5年以上の未来のこと。

学年で4人だけ3年分の数学クラスを飛び級している生徒がいて、その一人が私。もう一人が私の初彼でした。初彼はモルモン教から離れた宗派?出身で、親には「悪魔がついた」ととても嫌われていました。(無宗教有色人種うなので。)彼には私の妹と同じ学年の妹がいて、二人も友達でした。

小学時代から高校時代、家では日本語。家族では日本語。というルールの元生活していました。家族じゃない日本人と話すのは一年に一回あるかないか。という頻度。日本食店もないし、日本食材はLotteで高く売っているのものを涙飲んで買っていた。ネット配信で動画をみるなんてなかったし、この頃は本当に便利になったな。と思います。

なんだか長くなったので、この辺で①は終わりということにします。なんか、思い返してみると色々ありましたね〜。「死にたい」とか毎日思ってたことなんかすっかり忘れてました。本当に呑気なもんや。



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