見出し画像

私のために、書きつづける。

文章を書くこと。

昔から、私にとってはとても身近なものだった。どれぐらい身近かというと、誰かにとって、漫画を読んだり、ゲームをしたり、友達と外で遊んだりすることに値するぐらいの当たり前な事だった。

幼少期はTHE鍵っ子で、1人で留守番が当たり前だった。さらにスパルタな母は、留守番中のルールも設けていて、友達と遊ぶの禁止、テレビ禁止、漫画禁止wwwそんなルールを、これまた普通にこなしていた小学生の私。生まれてからずっとこんな環境だったからか、特に悲観することもなく、当時はすんなりと受け入れていた。

そんなちょっと独特な環境で育った私が、唯一許可を得られた娯楽は「読書」「ラジオ」そして作文用紙に「書くこと」だった。

ほんまに平成生まれか???wwと思えるほど、子供らしいキラキラとした世界とはかけ離れている、アナログで地味目な幼少時代の私の生活。

みんなみたいに自由に過ごせなかった子供時代に対しては、後に心のしこりとして感じた時代はもちろんあったけど、そのしこりをほぐすかのように、青年期にしっかりと反抗期を通して、負の気持ちは消化させてきた。

ビジュアライズされた情報世界には触れず「活字」と「人のことば」で楽しみを感じていた幼少期の私。当時感じていたあらゆる感情は、誰に伝わることもなく、全て文字となり、紙の上に住み着いていた。今でも実家に帰るとたまに目にする、昔の私の感情たち。私の生きた証が、文字として残っている事が、実はたまらなく幸せだったりする。

そんな感じで、文字や書く事に対して、比較的苦手意識なく生きてきたタイプだったけど、これが大人になるにつれて「楽しみ」ではなく「作業」や「恐れ」になってきつつあった。

自分だけのために、何かを綴ることは平気なのに、いざ公にするとなると、急に手が止まり、頭でっかちになり、心ではなく頭ばかりを動かして、不自然な文字になってしまう。

なんでだろう。

うまく書かなければならない、ちゃんと読まれる文章にしなければならない、誰も傷つけてはならない、正しい文法を使わなければならない…

誰に頼まれたこともないのに、何に対してのプレッシャーを感じているのか。人の目を気にするなんて習性は、時に好きなことですら、キライにさせてしまう厄介者だ。

それでも私の感情は動き続けて、新たに生まれてくる。その一瞬一瞬を感じられる事が、きっと生きている醍醐味なのかもしれない。

私は、自分の感情に敏感でいたいし、いろんな感情を纏う自分を誇りにも思って生きていきたい。せっかく喜怒哀楽も感じられる人間として生まれたのだから、その時々で生まれる感情を繊細に味わいたい。

そして、記録に残していきたい。
誰かが写真で残すみたいに、私は文字で残していきたい。

誰のためって?

それは自分のため。

かっこつけて一丁前に「誰かのために」なんてことは、今はしないでおこううと決めた。誰かに見せると考えた瞬間、私は手が止まってしまう。失敗したらどうしよう、誰かを傷つけたらどうしようって。

でも自分のためになら、すんなり書けそう。

昔の自分が綴った言葉で、今の私が救われているように、きっと自分のために書いたことは、未来の私を救ってくれる。

書くことが辛くなったときは、きっと誰かの目を気にし過ぎているからなのかもしれない。でも、もう決めた。

私は、私のために書く。

日常の中に、ほんの少し自分に向けた「書く時間」を、これからも大切にし続けたいな。

Hiroko

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?