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『准教授・高槻彰良の推察 6 鏡がうつす影』感想

『准教授・高槻彰良の推察 6 鏡がうつす影』澤村御影 角川文庫

『准教授・高槻彰良の推察 6 鏡がうつす影』澤村御影/角川文庫(表紙画像は版元ドットコム様より)

以前から本屋さんでは見ていて気にはなっていたのですが、実際読んではいなかったシリーズ。
地上波でやっていたドラマのSeason1の最後の方をちらっと見て気になったので読んでみました。
この6巻は、地上波のSeason1最終話のその後ですね。とはいえ、ドラマは原作どおりの順番では進んでいないようですが。

私は民俗学を扱ったミステリが好きでこれまでにもいくつか読んだんですが、このシリーズの好きなところは、言い切らないところ。
京極夏彦のシリーズはあれはもうちょっと別格で、いろんな分野のいろんな説を網羅しているがゆえにあれだけの文章量になってるんだと思うんですよ。言い切らないって言うのとはちょっと違う。口調としては断定的だけど、説としてはいろんなものを取り上げてる。だからあまり気にならない。
だけど他の民俗学を扱うシリーズでよくあるのが、ミステリを解く過程で題材としている逸話などにおいて、「これはこうだ」と断定する形になっているもの。
謎解きをするという意味合いにおいて、ミステリという体裁において、きちんと謎を解決する為に断定する必要はあると思いますが、そこでとりあげられている民俗学の分野においては断定しなくてもいいんじゃないのというか、断定してしまったら他の説はどうなるの、と思ってしまうんですよね。
文献もろくにない時代のものや、諸説あるものについてもあまり他の説には触れずに断定しているものがあって、そういうのを読んだときにはいつも、ミステリそのものよりも民俗学的にそれはどうなの、ということが気になってしまう。
民俗学をやっていない私がそう思ってしまうことの是非はおいておいて、断言しちゃっていいのかなあと思っていたのです。
言っちゃ悪いですが、民俗学の本よりもミステリを読む人の方が多いので、下手にミステリという分野で民俗学の一説を扱って断言しちゃったら、その説が当たり前だと思っちゃう人が多いんじゃないかな、と思ってしまったゆえのもやもや。
もちろん、紙面だったりの都合で短くしなくてはならず、そのために断定しなくてはならなかった、という事情の場合もあると思う。
つまりは余計なお世話なんでしょうが、そういう部分が気になっていたんです。
でもこのシリーズは、ホームズ役の民俗学の准教授が、いろんな説があるよね、と否定したり決めつけたりせずにいろんな話を出してくるのが好きです。
それはお話の導入部分で語られる講義の部分でも謎解きの過程でも一貫しているからもやもやがない。
タイトルも「高槻彰良の推察」ですし、高槻先生の人物設定が、いろんなものを受け入れる人として描かれているのもあるのかも。

ぞわりと来たのは、第二章「肌に宿る顔」。章タイトルのとおり人面瘡を扱ったお話。
人面瘡というものが、子供の頃に読んだ漫画だったか小説だったかでちょっとトラウマっぽくなったことがあるのですが、そのときの感覚を思い出しました。
とはいえ、このお話の怖い部分は人面瘡それ自体ではなくて人の心の有り様のほう。
完璧な親も完璧な子供も完璧な家族も、そもそも完璧な人間もいないことはわかっているけれど、それでももうちょっとなんとかならなかったのかな、掛け違えた部分をどうにかできなかったのかな、と考えてしまうお話でした。

第三章「紫の鏡」。この冒頭に出てくる紫の鏡の都市伝説は知らなかったな。私の知っているのは同じ部屋に鏡を七つ置いてはいけないとか、合わせ鏡のいくつ目かに死に顔が映るとかそういうの。
ともかく、紫の鏡の都市伝説から本題に移っていくのですが、このお話に出てくる姿見のようなものは、もしかしたらあちこちにあるのかもしれない、と思ってしまいました。
昔から、異界への憧れのようなものがあるからそう思ったのかもしれません。
このシリーズで描かれている異界は憧れるような場所ではなく畏るべきものですが。

このシリーズを読んでいると、子供の頃に心に描いていたような「ここではないどこか」を思い出すことがよくあります。
楽しい嬉しいばかりではなく、怖い恐ろしいものも含んだ「ここではないどこか」。
現代にも生まれ続けている都市伝説と、懐かしいいつか見た、聞いた怖い話や昔話、そして「ここではないどこか」がこのシリーズには全部含まれているような気がするのです。

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