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『八月の御所グラウンド』感想

『八月の御所グラウンド』万城目学/文藝春秋

第170回直木賞受賞作。
私は天邪鬼なので、もともと興味があった本でも受賞した途端に手に取りづらく思うことが多々あるのですが、なぜかこの本はするっと手に取ってしまいました。
なぜなのかは自分でもわからないんだけれども、万城目学×京都というだけで絶対面白いと思ってしまった。万城目学さんの本ってこれまであんまりちゃんと読んだことないのにな。不思議。

あらすじはこんな感じ。
 死んだはずの名投手とのプレーボール
 戦争に断ち切られた青春
 京都が生んだ、やさしい奇跡

 女子全国高校駅伝――都大路にピンチランナーとして挑む、絶望的に方向音痴な女子高校生。
 謎の草野球大会――借金のカタに、早朝の御所G(グラウンド)でたまひで杯に参加する羽目になった大学生。
 京都で起きる、幻のような出会いが生んだドラマとは――。(文芸春秋社HPより)

陸上を始めてそんなに経っていないまだまだ伸び盛りのピンチランナーが主人公の「十二月の都大路上下(カケ)ル」
今年の夏休みは彼女とバケーションのはずが酷暑の京都で草野球大会に出場する羽目になった大学生が主人公の「八月の御所グラウンド」
という最低限のあらすじもまったく知らずに読み始めたこのお話ですが、びっくりするほどするりと作品の中に引き込まれていきました。

ひとつには、「十二月の都大路上下ル」の舞台が都大路ということもあったと思います。
うちの市にも毎回とは言わないにしてもそこそこの頻度で都大路を走っている陸上部のある高校がありますし、私の家族も友達の家族もマラソンや駅伝をやっていて、ランナーが身近だと言うこともある。
大きな大会に行ったときの身の引き締まるような感覚がまた懐かしい。私の場合は全国大会なんかじゃなかったし種目も全然違うけれど、試合前のあの独特の緊張感を思い出しました。

「八月の御所グラウンド」は、学生だった頃のことを思い出しながら読みました。
もちろんこんな経験はしていなんだけど、今から考えてみると学生の頃って大人と子供の中間のようなふわふわとした感じがあったと思います。
高校生の頃までのような、学校の内側に守られていたというか囲われていたというか、要は子供扱いされているのではなく、けれど社会人になってからの責任のある大人という扱いでもない中途半端な存在。
その中途半端な存在だった頃の自分を、「八月の御所グラウンド」を読みながら思い出していました。

そして作品の中に惹きこまれた一番重要な理由が、万城目学さんの文章。
難しい言葉なんて特にない。文章もとても平易で読みやすい。普段自分たちの使っている言葉のような、とても身近な言葉と文体。
そしてその中に不意に現れるとても美しい表現。
まるでごく当たり前の光景に、不意に天から光が差したかのような。
雲間から一筋、陽の光が差しているのを見たことがないでしょうか。天からの光の筋のような、それこそ天使の通り道みたいな一条の光。
「十二月の都大路上下(カケ)ル」の最初の方でそういう一文に出会い、それで一気にこのお話の世界に惹きこまれてしまいました。

そんなふうに私たちが普段使っているような言葉と文学的な表現が同じページに存在しているのに、両者が溶けあっているように感じるのも不思議でした。
ただ、溶けあってはいるけれど、混ざりあってはいない。
ごく普通の言葉や文章ととても美しい文学的な表現が並んでいて、違和感がないのです。
そうして気づいたときにはすでにランナーズハイのようになっている。

「八月の御所グラウンド」は最後の最後までずっとそのランナーズハイのまま駆け抜けてしまいました。
最後のページ、最後の一文までずっと気持ちのいいまま駆け抜けて、読み終わったときに何とも言えない爽快さ。
余韻がとても気持ち良くて、最後の一文をもう一度読んで……一人でスタンディングオベーションでした。
じんわりと温かくなるこの物語に。そして物語の幕をここで引く潔さに。
きちんと終わっているのに終わっていない。終わっていないのに終わっている。

最後の文章の後を万城目学さんはどう考えていたんだろう。
物語というものは作者の方が書き、そして読者のもとに届いたと同時に、それはもう読者のものになると私は思っています。
それは読者ひとりひとりが別の人間で、別のことを想い、考えているから。物語はその人の中に沁みこみ、溶けこみ、その人のものになるから。
だからひとつの物語が読者の数だけたくさんの物語になる。

だから私の中の「八月の御所グラウンド」は、他の方の「八月の御所グラウンド」とは違うお話になると思っています。
私の中の『八月の御所グラウンド』は、本を読み終わってからもまだまだずっと続いていく。

『八月の御所グラウンド』はそんなふうに読み終わってからも世界がずっと広がっていく、とてもあたたかで素敵な物語でした。

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