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安全と自由 : あるべき監視の姿とは Kosmosブランドストーリー


はじめに


はじめまして、経産省主催の社会起業家育成アクセラレーションプログラム『ゼロイチ』で、一期生として「安全とプライバシーのトレードオフ」という問題に取り組んでいた早稲田大学商学部の4年の佐藤大稀です。私は今、相方の樋口大将(株式会社マネーフォワードPdM)とエンジニアやデザイナー、Bizdevの計7人の仲間と共に、Kosmosという組織の代表として「安全とプライバシーのトレードオフ」という社会課題を解決する事業を創っています。

左:佐藤 中央:樋口


今年の2月をもって『ゼロイチ』での7ヶ月間が終了し、結果として最優秀賞をいただくことができました。現在は事業を推進しながら、すずかんゼミに所属し、監視やプライバシー、公共安全についての研究をし、この分野での卒近代を志向しています。そこで、私がゼロイチでの7ヶ月間やすずかんゼミでの3ヶ月、およびそれ以前からずっと考え続けていた、「自分がこの事業を通じて実現したい理想の社会」「Kosmosの哲学」について、この度、現状の考えを執筆することにしました。





自己紹介

経歴

早稲田大学商学部4年。株式会社Kosmosの代表。web3スタートアップでのBizdevやプログラミングスクールの運営等のインターンを経験。その後、経産省主催のアクセラ『ゼロイチ』の一期生に選出され最優秀賞を受賞。『すずかんゼミ』にて、監視やプライバシー、公共安全の研究。U23サミット選出。

人生哲学

人間の本質が定められていないことや、真に自由な選択はできないことを受け入れ、同時に意味を求め探す人間の性を否定しない。その上で、『誰もが人生に意味を見出し、人生の肯定や満足ができる物語を紡ぐことができる世の中』を創る。
まずは、絶望に起因する死や消極的な生の選択をさせてしまう「幸福な物語の創造を阻害する要素」をなくす。
次段階として、各々が肯定や満足する物語を紡ぐ方法や思考を普及させて、希望を持った生の選択ができる人を1人でも多く増やせるよう努める。
また、個人の幸福の探究と構成員全体の幸福に寄与できる社会を、双方が成り立ち、持続的にする方法を探究して実現する。


この事業に取り組む理由

私がこの事業を立ち上げる契機となったのは、大学2年生の時に起きた母へのストーカー被害だった。町中に中傷ビラが貼られ、近隣住民のポストにまで投函される事態に、家族全員が深い衝撃を受けた。幸い、近所の方の通報で問題が早期に発覚し、警察の捜査が始まった。隣家の防犯カメラに犯人の姿が映っていたものの、住宅街にはプライバシーの問題でカメラが少なく、犯人の特定には至らなかった。この事件により、それまで明るく元気だった母から笑顔が消え、外出を恐れるようになった。母の変化を目の当たりにし、安全が脅かされることで人がこれほどまでに憔悴することに衝撃を受けた。同時に、「事実確認の手段が不足している」ことへの強い危機感と、「安全があらゆることの土台である」という認識を深めた。

さらに調査を進めると、旭川女子中学生いじめ凍死事件など、プライベートな空間で起きる悲惨な事件の存在を知った。これらの事例から、真実を照らし出し適切な解決に繋げる手段の必要性を痛感し、絶望から死を選ぶ人を一人でも減らすための活動を決意した。
また、私の経験から、防犯カメラ設置の障壁となっているプライバシーの問題をいかに解決し、安全な社会を実現できるかを考えるようになった。同時に、プライバシーの重要性も深く認識するようになり、監視社会の危険性にも強い危機感を抱くようになった。

安全とプライバシーという、ともに重要でありながら時に相反する価値が二者択一の関係に置かれている現状は、早急に解決すべき課題だ。この問題に取り組むため、私は事業という形での解決を志した。人々が安全に、そして自由に笑顔で暮らせる社会の実現。それが、Kosmosが目指す未来像であり、私の使命と考えこの問題に取り組んでいる。​​​​​​​​​​​​​




取り組んでいる課題

プライベート空間での暴力

我々が取り組む課題は、プライベート空間における暴力の蔓延だ。この問題の特徴は、公共の場と比べて見過ごされやすく、放置されがちな点にある。本来、心の拠り所となるべき場所で多くの人々が苦しんでいる現状は、看過できない。

プライバシーが重視される場所には、往々にして防犯カメラが設置されていない。そのため、公共の場と比較して暴力が発生しやすく、常態化する傾向がある。特に、組織内で複数人が頻繁にコミュニケーションを取り、かつ関係者以外の目が届きにくい場所―例えば、学校や塾などの教育現場、保育園や介護施設といった福祉施設―でこの傾向が顕著だ。

統計は、この問題の深刻さを如実に物語っている。2022年度のいじめ認知件数は過去最多の約68万件に達した。児童虐待の確認件数も約22万件を数え、高齢者虐待を含めればさらに増加する。性被害に至っては、女性の約14人に1人、推定464万人もの女性が被害経験を持つとされる。しかも、これらは氷山の一角に過ぎず、実際の被害はさらに膨大だと推測される。

これらの問題を根絶するには、安全を守るための監視を切っても切り離すことができない。そのため、以下では安全を守る上で重要だが、実は適切な理解がなされていない監視について深ぼって論じていく。



監視を語る上で

これまで、監視の問題については感情的な批判ばかりなされており、論理的で、かつわかりやすい言葉での批判が一般になされていなかった。それは、国会での答弁や多くの専門家の発言でも実感し、どこか感情的で、論点のずれや主張の根拠の曖昧さが常に気になっていた。

そのため、一辺倒に監視社会に対する脅威を訴えるだけでなく、私たちが住む世界がどのように安全保障されており、どのようにその中において自由で民主的であろうとしてきたかという視点から、誰もが理解できるであろう言葉を用いて監視を論じていくことが極めて重要だと考え、以下に監視に関する考えを論じる。



安全を守るために

安全を保障するためには多種多様な方法があり、それらを複合的におり重ねていくことで限りなく安全が守られるように工夫されている。

その方法を二つに大別すると、自衛加害者(加害可能性がある組織の構成員)の行動規制に分けられる。しかし、自衛には絶対的な限界があり、現代社会では安全保障において大きな役割を果たしているとは言い難い。むしろ、加害者(加害可能性がある組織の構成員)の行動規制を効果的に可能とするシステムが構築されているからこそ、私たちの安全は比較的守られている。

そのため、まずは私たちの安全が保証されるために、どのように加害者の行動を規制しているかについて、ローレンス・レッシグが提示した「行為の4つの制約」と具体的な防犯施策を結びつけて考えていきたい。



レッシグと行動の制限

まず、ローレンス・レッシグが提示する人の行為を制約する4つのものとは、「法」、「規範」、「市場」、「アーキテクチャ」の4つである。
それらをそれぞれ説明すると、

1. 法 (Law):
法律や規則のことを指す。社会が定める公式なルールであり、違反した場合には罰則が伴うものだ。例えば、交通法規や犯罪法などが該当する。

2. 規範 (Norms):
社会や文化の中で暗黙のうちに共有される行動基準や価値観を指す。法律ほど明確ではないが、社会的な圧力や評判によって人々の行動を規制するものである。例えば、公共の場でのマナーや礼儀作法などが該当する。

3. 市場 (Market):
経済的な要因による制約を指す。価格、需要と供給、経済的インセンティブなどが人々の行動選択に影響を与えるというものだ。例えば、高価格の商品は購入を躊躇させるなど、経済的な要因が行動を制限する。

4. アーキテクチャ (Architecture):
物理的または技術的な構造による制約を指す。環境設計や技術的な仕組みが人々の行動の可能性を規定する。例えば、建物の構造や道路の設計、またはインターネット上のセキュリティシステムなどが該当する。

これら4つの要素は互いに影響し合い、複合的に人々の行動を形作る。レッシグの理論では、特にデジタル時代において「アーキテクチャ」の重要性が増していると指摘されている。

これらを踏まえて、現状実施されている防犯施策を分解し、レッシグの4つの制約と照らし合わせてみると、確かにどの施策も4つの制約と適合し、これらの複合によって防犯がなされていることがわかる。


防犯の流れ




監視の強力さ

防犯があらゆる制約によってなされていることが確認できたが、私はこれらの施策が私的空間つまりプライベートな空間では著しく機能していないことに危機感を覚えている。そこでは、公共の場ほど防犯施策が十分とは言い難く、多くの暴力や攻撃行為が蔓延し、放置されているのが現状だ。

プライベートな空間ではなぜそのような事態になっているのかを考える上で、プライベート空間での防犯の流れを見てみるとその最大の原因が判明する。


防犯の流れ


防犯の一連の流れを見てみると、公共の場にあってプライベート空間にはないものがあることがわかる。それは事実確認の手段、つまり監視の目である。
プライベート空間における安全保障の欠如を引き起こす最大の原因は、監視が機能しないことにある。監視が機能しないことでもたらされる影響は、単に事実確認ができなくなるだけではない。監視によって事実確認ができなければ、法や市場による制約が機能せず、また規範による制約を加害者に適用できなくなる。というのも、監視の目があることで、「どうせバレない」という意識をなくし、刑罰意識の植え付けが正しく機能する。また、事件が発生した場合でも、監視の目があることで実際に起きた事象を正確に確認することができる。それによって事実がわからず、正しく刑罰が執行されない、法律が機能しないといった事態を避けることができる。つまり、これらの防犯施策の根幹は監視であり、監視による事実確認ができなければあらゆる制約つまり防犯が機能しないことを意味する。そのくらい防犯において監視は極めて重要であり不可欠なのである。

次に、なぜプライベート空間において監視が不足しているのかについて、監視の代表的存在である防犯カメラに触れつつ、監視の有用性や問題点について見ていく。



防犯カメラの光と闇

防犯カメラは監視の代表的な媒体であり、その効果は絶大だ。人間の監視者を必要とせず、24時間体制で監視を行える点で、※パノプティコン的な監視状態を容易に作り出す。この特性により、犯罪抑止や事件解決に大きく貢献している。

しかし、その強力さゆえの問題も存在する。過度の監視状態を作り出すため、プライベート空間ではプライバシーの観点から、設置が憚られる場合がある。一方で、いったん設置されると、その強力な監視能力によって新たな問題が生じることもある。例えば、収集された映像データの不適切な使用や、常時監視による心理的圧迫などだ。

つまり、防犯カメラは安全確保の有効な手段であるが、監視は強大だからこそ使う場所を選び、使い方次第では問題が発生してしまう。それこそが、プライベートな空間において、監視がプライバシーの観点から嫌煙される理由である。

そのため、これからは監視とはどういったもので、どのような効果をもたらすが故に嫌煙されているのかについて論じていきたいと思う。

※パノプティコンに関しては後述する。



道具としての監視

監視とは包丁のようなものである。というより、そのように捉えられるべきものであると言った方が正確である。包丁のように多種多様な使い方が可能な、便利で危険な道具として考えることで、監視に関する解像度を上げることができる。そのため、今回は監視を包丁と比較して、それぞれを、どういった特徴、機能、効果、目的を有するかという側面から考察していく。

まずは包丁や監視を正しく使った場合、


このように包丁や監視は正しく使えば非常に便利な道具だ。しかし、使用目的を誤り、他者を傷つけることを目的とすればそれを助長する道具にもなり得る。また、監視も同様に、その特徴や機能を悪用すれば、他者を自由にコントロールする道具となる可能性を有するのである。


そのため、明確にこれらの道具の所有者の行動を制限できない場合、これらは当然嫌煙される。まさに、監視が嫌煙されるのは上記の理由であり、それはつまり悪用を制限できない以上、正しい利用による便益を得ることができないことを意味している。

また、監視を道具として考えると当たり前だが、「これは監視カメラか?防犯カメラか?」といった一般的になされるこのような議論で、これらが並列に語られて比較されるのは奇妙な話である。監視は道具であり、防犯は目的だ。監視という道具を用いて、どういった目的で用いられるかを考えるべきで、目的がそれぞれのカメラそのものに規定されるわけではないことは留意すべきである。

では、次にそんな監視によってもたらされる機能について深掘り、監視を用いることでどのような権力を増幅させるのかについて論じたい。



監視に関わる権力の体系

監視の機能である「権力の増幅」だが、その権力の働かせ方として代表的なものが2つ存在する。それは規律訓練型権力と環境管理型権力と呼ばれるものだ。そのためこれらについて、それぞれの特徴やどのように働かされているのかに注目して解説したい。

規律訓練型権力
規律訓練型権力を論じる上で、ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」と、その中でこの権力を働かせている代表的な例として挙げられているパノプティコンについて触れないわけにはいかない。

規律訓練型権力は、ミシェル・フーコーが提唱した権力の概念で、個人の行動や思考を社会規範に適合させる仕組みを指す。この権力は、監視を中核として機能し、個人を常に観察、分類、評価することで、自己規制を促す。

典型例として、ジェレミー・ベンサムのパノプティコンがある。これは、中央の塔から全囚人を監視できる円形刑務所であるが、囚人からは塔にいる看守が見えない。そのため、囚人は常に監視されている可能性から自己規制を行う。

パノプティコン

つまるところ、もし塔に看守がいなかったとしても、囚人は監視されているかもしれないという意識から自分自身で視線を内面化して模範的な行動を取るようになるのだ。

また、この権力は刑務所のみならず、現代社会の様々な場面に一般化されている。学校での生徒評価、工場での労働監視、病院での患者観察、SNSでのユーザー行動追跡、公共空間での防犯カメラなどがその例だ。これらは、個人が常に観察されているという感覚を持たせ、社会規範に適合した行動を取らせている。

レッシグの観点から見ても、この権力は主に法や規範を通じて人々を制約している。直接的な強制ではなく、個人の内面に働きかけることで、外部からの強制なしに自発的な従順さを生み出すのが特徴だ。​​​​​​​​​​​​​​​​



環境管理型権力
次に監視が増幅させる権力体系のもう一つが環境管理型権力である。

環境管理型権力は、ジル・ドゥルーズの「管理社会」概念に基づく権力形態で、環境設計を通じて個人の行動を間接的に制御する。この権力は、監視技術を用いて個人の行動パターンを分析し、それに基づいて環境を最適化するものである。

代表的な例として頻繁に挙げられるのは、公園に設置されたホームレスが寝られないように設計された椅子だ。

ホームレスが寝られないように設計された椅子

これらの椅子は、中央の仕切り、傾斜した座面、多数のアームレストなど、一見普通に見えて巧妙な特徴を持つ。このデザインは、一見すると利用者に快適さを提供しているように思えるが、実は環境設計を通じてホームレスの長時間滞在や就寝を物理的に不可能にしている

このように、環境管理型権力は、規律訓練型権力よりも巧妙で、表面上は個人の自由を尊重しているように見えながら、実際には深いレベルで行動を制御している。これは現代のデジタル社会で特に顕著であり、プライバシーや自律性に関する重要な問題を提起している。​​​​​​​​​​​​​​​​



監視は主にこれらの二つの権力を増幅させ、監視される者を自由にコントロールすることが可能となっている。ただ、このような悪用を可能とする権力の働かせ方が存在する以上、当然問題も多数発生する。次は、監視がどのような問題を引き起こし、なぜ問題なのかといったことについても論じていきたい。



監視の問題点

改めて、監視の問題点を挙げるならば、その権力を増幅させることで既存の権力を絶対化し、隅々まで権力を行き渡らせすぎてしまう点にあるだろう。監視によって行動を規制することで、監視者が監視される者を都合よく管理することができる性質はあまりに強力だ。だからこそ、安全を守ることにつながることが可能となる側面があるが、一歩間違えれば人々の自由やプライバシーを剥奪し得ないものとして捉えられる。特に民主主義社会において、人々が一方的に管理されず、自由で独立した状態が守られることが極めて重要なことは言うまでもない。行き過ぎた監視は監視をする管理者の独裁を強め、自由を奪い、民主的な社会や環境の構築を阻害する。現実に、監視によってそのような事態が引き起こされている場所や、引き起こされる危機にある場所は多数存在する。

そのため、これからは具体的なケースをおおまかに大別してそれらの問題点についてもみていこう。



監視悪用の具体的な事例

これから、そういった事態が発生している具体的な現場を見ていきたいが、組織をどのように捉えて、どのくらいの視野で見るかによって問題点もそれぞれ異なる。そのため、様々な現場を大別し、それぞれで何が問題であるかを論じていきたい。


独裁的な国家における監視の問題点
独裁的な国家における監視の問題は、ジョージ・オーウェルの「1984年」に描かれたビッグブラザーの全体主義国家や、現実の中国の監視システムに見られる。これらの体制では、市民の生活が常時監視され、表現の自由が制限されることで、プライバシーの侵害と社会の画一化が進む。

一方、民主主義社会ではマイノリティの存在が重要で、多様性が新しいアイデアや革新を生み出す。歴史上、アメリカ革命やフランス革命、産業革命、デジタル革命など、革命が社会に良い影響をもたらした例も多い。

しかし、過度の監視は既存の権力を強化し、革命の可能性を狭める。これは社会の変革を困難にし、独裁を強化する危険性がある。この不可逆性が、監視を行き過ぎさせてはいけない重要な理由の一つとなっている。監視と自由のバランスを保つことが、健全な社会の維持には不可欠だ。​​​​​​​​​​​​​​​​



独裁的な国家における監視の事例
独裁的な国家における監視の極端な例として、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」と現代中国の監視システムが挙げられる。

「1984年」では、全体主義国家「オセアニア」が「ビッグブラザー」の名の下、市民を徹底的に監視する。テレスクリーンを通じた24時間監視、思想警察による内面の管理、「ニュースピーク」による言語統制など、極端な監視社会の姿を描いている。その中の人々は皆ビッグブラザーに忠誠を誓い、不満を持つことさえ許されない。政権が都合よく人々を支配するために監視が用いられているのである。

「1984年」に登場するビッグブラザー


現代の中国では、「1984年」世界が現実のものとなったかのような、世界最大規模の監視ネットワークが構築されている。顔認識技術を用いた公共空間での監視、インターネット検閲システム「グレート・ファイアウォール」、そして社会信用システムによる市民の行動評価など、高度な技術を駆使した監視体制が敷かれている。その中では、共産党の方針に逆らう団体やジャーナリストは軒並み監視、逮捕される。特に、ウイグルにおいてはその傾向が顕著である。

監視社会と化した中国

これらの事例は、監視技術が権力者の手に渡った際の危険性を示している。個人の自由やプライバシーが著しく制限され、社会全体が権力者の管理下に置かれる可能性を警告しているのだ。​​​​​​​​​​​​​​​​



民主的な国家における監視の問題点
民主主義国家であっても、監視が必ずしも民主的に用いられるわけではない。この点は重要な認識だ。確かに、政府は民主的に選ばれるが、監視システムの運用は往々にして不透明で、市民の直接的な管理下にはない。

例えば、情報機関による秘密裏の監視活動や、法執行機関による過剰な個人情報の収集などは、民主的なプロセスを経ずに行われることがある。また、テクノロジーの急速な発展により、監視能力が法律や倫理的な議論の速度を上回ることも多い。

さらに、監視データの使用目的が、当初の意図から逸脱して拡大する「機能のクリープ」現象も懸念される。これにより、市民の同意なしに監視の範囲が広がる可能性がある。

また、多数派の意見が少数派の権利を脅かす「多数者の専制」のリスクも存在する。民主的に決定されたように見える政策でも、実際には特定のグループに不当な監視の負担を強いることがある。

したがって、民主主義国家においても、監視システムの構築と運用には継続的な警戒と市民参加が不可欠だ。「権力の絶対化を防ぐ」という民主主義の本質を忘れず、透明性の確保や定期的な見直しのメカニズムなど、監視が真に民主的に用いられるための仕組みづくりが重要な課題となっている。​​​​​​​​​​​​​​​​



民主主義国家における監視の事例
監視社会への懸念は中国のような独裁国家でのみ発生すると考える人も多いが、既にアメリカや日本のような民主主義国家でも多数の不当な監視による事件が発生している。

例えば、スノーデンの告発は、米国NSAによる世界規模の監視プログラムの存在を明らかにした。これは、政府が一般市民の通信を大規模に監視している実態を示し、国家安全保障とプライバシーのバランスに関する世界的な議論を巻き起こした。

スノーデンの告発


また、Facebook ケンブリッジアナリティカ事件では、数百万人のユーザーデータが政治的目的で不正利用された。ブレグジットやトランプ大統領の誕生にも影響を与え、市民の投票を恣意的にコントロールした。この事件は、ソーシャルメディア上の個人情報が、知らないうちに収集され、民主主義プロセスを操作するために使用される危険性を明らかにした。

ケンブリッジアナリティカ社 内部告発


日本国内での監視に関する事件としては、大垣警察市民監視事件が挙げられる。これは警察が市民団体の活動を違法に監視していた事例で、地方レベルでも監視が行われている現実を示している。市民活動を監視、制限しようと試みていた点でも、ウイグルで行われている監視と大差はない。

表現・集会の自由侵害への抗議

さらに、LINEとマイナンバーカードの紐付けや信用スコアの実施の検討は、日常的なコミュニケーションツールと国家の個人識別システムが結びつく可能性を示唆している。これは、中国の社会信用システム(芝麻信用)を彷彿とさせ、個人の行動が常時評価される社会への移行の兆しとも言える。

中国の芝麻信用を彷彿とさせるLINE Score


これらの事例は、政府機関から大企業、地方自治体まで、様々なレベルで監視が水面下で進行していることを示している。監視はもはや遠い国の話や、小説の中の出来事、陰謀論ではない。私たちの日常生活のあらゆる場面で、知らないうちに監視の対象となっている可能性がある。

このような現状を踏まえると、監視の問題は決して他人事ではなく、より注意深くあるべき問題の一つなのである。



ミクロな現場における監視の問題点
ミクロな現場における監視と安全保障の問題は、国家レベルとは異なる複雑さを持つ。学校、保育園、介護施設、オフィスなどのプライベート空間は、しばしば「ガバメントリーチ」が及びにくい領域となっている。そのため、これらの場所では、学校でのいじめ、保育園での不適切な行為、介護施設での虐待、オフィスでのハラスメントなど、法律で明確に規制することが難しい or 法律で問題とするべきではない問題が存在する。

これらに対処するため、私たちはミクロな現場において小さな社会契約のようなものを結び、組織の管理者がリヴァイアサンの役割を果たしている。しかし、その役割は十分に機能していないケースが多く、結局のところ問題が蔓延、放置されている。

また、ミクロレベルでも権力の濫用は見られ、ビッグブラザーのように巨大権力ではなくとも、各組織の管理者が「リトルブラザー」と呼ばれる小さな独裁者となっているケースも少なくない。また、ここでも管理者による過度の監視が、プライバシーの侵害や自由な活動の制限につながっている。

これらの問題の根底には、ミクロな現場における権力の不均衡があり、そういった場でも、権力の濫用を防ぎつつ個人の権利と組織の秩序のバランスを取ることは極めて重要である。



監視資本主義における監視の問題点
監視資本主義は、企業、特に巨大テクノロジー企業が個人のデータを収集・分析し、人々を企業の商品として利益を得る新たな経済システムだ。ポケモンGOのようなゲームアプリや、Amazonの購買履歴分析など、日常生活のあらゆる側面がデータ化され、企業の利益源となっている。

ショシャナ・ズボフの「監視資本主義」

例えば、グーグルで何を検索したか、グーグルの管理するGmailで誰に何回、どんなメッセージを送ったかなどのデータから、私たちの興味や関心、人間関係がわかる。グーグルはこうして大量に抽出したデータを他の企業に売って、企業が私たち一人ひとりに狙いを定めたターゲット広告を打つことを可能にしてきた。

グーグルは便利で、何を検索しているか、メールに何を書いているか見られても別に構わない、と感じる人もいるかもしれない。が、企業があなたの仕事や週末の行動パターンを探るだけでなく、秘密や弱みや悩みにつけ込み、不安を煽ってダイエット商品を買わせたり、興奮を誘ってゲーム中毒にさせたりしているとしたら、どうだろうか。それは本当にあなたの選択、あなたの意志と言えるだろうか? 私たち自身の望みや思考はどこへ行ってしまうのだろうか? 私たちは感じなくてもいい不安や、しなくてもいい出費に振り回されることになる。

監視資本主義は、私たちを操り人形のように操ることを最終目標にしている。「私たちがグーグルを検索していると思っていたら、実はグーグルの方が私たちを検索していた」のである。

この仕組みは環境管理型権力の一形態と見なせ、ユーザーの行動予測や誘導を可能にする。これは、プライバシー侵害、情報の非対称性、社会の不平等助長、民主主義への影響など、多くの問題をはらんでいる。

一方で、パーソナライズされることによりサービスが向上するといった利点もある。しかし、権力の集中や個人の自由への影響を考慮すると、個人のデータ所有権確立やデータ利用の透明性向上など、慎重な対策が必要だ。

監視資本主義は社会や経済のあり方を根本から変える可能性があり、個人の自由や民主主義との両立が現代社会の重要な課題となっている。​​​​​​​​​​​​​​​​



このように、様々な現場において監視が大きな問題となっていることは、具体的な事例から見ても明らかだろう。次はこれらの具体的な監視事例を踏まえて、監視がどのように使われるべきかを考察していきたい。



監視のあり方

どのように監視が使われるべきか

「どのように監視が使われるべきか」を考える上で重要なのは、「どのように監視が使われるべきではないか」である。これを規定することがすなわち、どのように監視が使われるべきかを必然的に決定することになる。

先ほどの監視が包摂する問題点を鑑みると、「監視される者の恣意的な管理し、自由や民主性を剥奪すること」が監視の目的となることは避けなくてはならないだろう。そのためには、監視が管理者の都合で自由に使うことができる道具であってはならない。あくまで、監視は監視される者の自由や民主性を保証しうる使われ方をされて然るべきである。民主主義の社会の中で私たちは、安全を守られながらも自由である権利が必要だ。

ただ、監視を使う上でこの2つを両立させることは極めて難しく、永遠の課題として存在する。そこで、これまで先人たちが築いてきた安全でありながらも自由な社会をどのように構築してきたかを理解することが、監視がどのような使われ方であるべきかを理解する上で極めて重要だろう。

そのため、現在の私たちがいかに安全が守られているかを考える上で、根底にある社会契約説の考え方と、そんな社会契約によって安全を確保した中で、私たちはどのように自由であれるかを模索したルソーの社会契約論を理解しなくてはならない。また、それらが現在の民主主義に与えた影響を考慮して、再度監視の使われ方を論じていこう。




社会契約説と安全保障

まずは、私たちの住む世界は「どのように社会契約という形によって安全を確保しているのか」「なぜ争わないですむのか」という安全保障の裏にある論理を正確に理解するべきである。

社会契約説で有名な人物はトマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャック・ルソーなどが挙げられるが、社会契約説を簡単に理解するためにこの考え方の礎となったホッブズの思想から考えてみる。

ホッブズは著書の「リヴァイアサン」の中で社会契約をこのように説明した。彼はまず、政府のない状態を「自然状態」と呼びその状態を鮮明に想像した。ホッブズはその自然状態を「万人の万人に対する闘争」と表現し、この状態ではお互いがお互いの安全や利益のために争い闘争状態となっていると考えた。

しかし、その状態では自分たちの安全を守ることは極めて難しい。そのため、人々は自分のために争う権利を政府に委ね、互いが自由に争わない約束をすることにした。つまり、これが社会契約である。そうすることで、人々は自由に自己利益のために争うことができず、強力な権力のもと安全な統治がなされる。ホッブズはこの強力な政府を新約聖書の怪物に準え「リヴァイアサン」と呼んだ。この契約により、人々は自由に争うのではなく、巨大な権力によって互いの利益を守る仕組みを構築したのである。

「リヴァイアサン」の表紙

また、この理論は合意に基づく秩序を説明すると同時に、政府の存在理由と権力乱用の防止を意味するものとなっているのだ。

しかし、この理論だと権力は集中し、人々の自由も制限されている。そこで、出てくるのがルソーの示した『社会契約論』である。次は現代社会の民主主義の基盤ともなったルソーの考え方についても見てみよう。



ルソーの一般意志と民主主義

「社会契約説に基づいた安全保障の中で、どのように自由で民主的な社会を構築することができるのか」という問いに答えた、ジャック・ルソーの一般意志と民主主義について説明する。

ルソーの社会契約論は、安全と自由の両立を目指す民主主義の基盤となる理論だ。その中心にあるのが「一般意志」の概念である。

一般意志は社会全体の共通利益を表すものだ。これは「全体意志」(個々人の意志の単純な総和)とは異なる。全体意志が個人的な利害の寄せ集めに過ぎないのに対し、一般意志は社会の長期的利益を考慮した、誤ることのないより高次の概念だ。

一方、「特殊意志」は個人や特定集団の利益を追求するものである。ルソーは、この特殊意志が一般意志を歪める可能性を指摘し、これを克服することが重要だと主張した。ルソーは、真の自由は一般意志に従うことで得られると考えた。一見矛盾するようだが、一般意志は自らも参加して形成したものであり、社会全体の利益は最終的に個人の利益にもなるという考えに基づいている。自分で自分を縛るということは、自分の自由を尊重する、という事である。

この思想は現代民主主義に大きな影響を与え、表現の自由、自発的な合意、市民参加の重要性を強調した。しかし、一般意志の正確な把握の難しさや、多数派の専制の危険性など、課題も存在する。現代社会は、ルソーの理念を尊重しつつ、個人の権利も保護するバランスの取れた民主主義を模索している。一般意志の実現には継続的な努力と慎重な制度設計が必要だが、それは民主主義の理想を追求する上で重要な指針となっている。​​​​​​​​​​​​​​​​

このように、ルソーの示した指針は理想であり実現は困難であるが、追求することでしか「私たちが安全でいながらも自由で民主的にいられる」ことを実現することは不可能なのだ。

これらを踏まえると、安全保障の観点だけでなく自由や民主主義を重視するのであれば、監視の使われ方においても一般意志の存在が重要になってくることは言うまでもないだろう。つまり、自由で民主的な社会においては、一般意志に基づいた監視のみが正当化されるべきであるということが自ずと導き出せる。

では、今から監視がどうあるべきかについてより考えを深めていこう。




あるべき監視のあり方

これまで長々と監視の問題について論じきたが、改めてここでどのような監視のあり方であるべきかを論じていきたい。

まず、監視は上下関係ではなく、対等な立場で行われるべきだ。むしろ、監視される側の利益のために監視が存在するという発想の転換が必要である。これは、権力者が市民を監視するのではなく、市民が権力を監視するという民主主義の本質に沿った考え方だ。「監視の民主化」は、この文脈で極めて重要な概念である。しかし、真の意味での民主化を実現するには、単純な多数決原理では不十分だ。ここでマイノリティの重要性が浮かび上がる。少数派の意見や権利を尊重することで、監視システムがより公正で包括的なものになる。

また、ルソーの言う「一般意志」に基づいた監視のあり方は追求すべきである。これは、単なる多数の意思ではなく、社会全体の共通利益を反映した意思に基づくことを意味する。重要なのは、監視を単なる管理の道具ではなく、社会の公正と透明性を高めるための手段として捉え直すことだ。そうすることで、監視が民主主義を脅かす存在ではなく、むしろそれを強化する存在になり得るであろう。​​​​​​​​​​​

このように定義した監視のあり方をもとに、今度は、このような感じであるためにはプライバシーはどうあるべきかについても論じていく。




プライバシーはどうあるべきか

プライバシーは、現代社会において極めて重要かつ複雑な課題となっている。あらゆる現場で監視が問題となる中、プライバシーのあり方を再考する必要性が高まっている。

プライバシーは単なる「秘密を守る権利」ではなく、より広範な意味を持つ。それは個人の自由、尊厳、そして自己決定権の基盤となるものだ。プライバシーが適切に保護されることで、人々は自由に思考し、感情を表現し、行動することができる。監視の悪用を防ぐことは、プライバシー保護の重要な側面だ。監視システムは本来、安全確保や効率化のために導入されるが、往々にして監視者が都合よく恣意的にコントロールする道具として使われてしまう。

また、プライバシーの保護は、個人が感情的に抑制されずに生きる権利を守ることにもつながる。常に監視されているという意識は、人々の自然な感情表現を萎縮させる。同様に、プライバシーは実際の行動を抑制されない権利としても重要だ。過度の監視は、人々の行動の自由を制限する。さらに、プライバシーは自分を権力から守る権利としても機能する。個人情報が完全に透明化されれば、権力者は個人の弱点や秘密を利用して不当な圧力をかけることができるようになる。プライバシーの保護は、このような権力の濫用から個人を守る盾となる。

しかし、完全なプライバシーの保護と社会の安全確保の間にはしばしば緊張関係がある。例えば、テロリズムの脅威に対処するための監視と、市民のプライバシー権の保護をどうバランスを取るかは、現代社会の大きな課題だ。

プライバシーは、個人の自由と尊厳を守り、民主主義社会の基盤となる重要な権利だ。技術の進歩により監視の可能性が拡大する中、プライバシーの保護と社会の安全のバランスを取ることは容易ではない。しかし、この難しい課題に取り組むことこそが、自由で公正な社会を維持するために不可欠なのだ。プライバシーの価値を再認識し、それを守るための具体的な方策を社会全体で議論し、実践していく必要がある。​​​​​​​​​​​​​​​​

しかしながら私は、現状のプライバシーの人々への受け取られ方に関して問題意識を抱いている。そのため、先ほどのプライバシーのあるべき姿であるために、プライバシーはどのように人々が捉えたらより良いのかについても論じていきたい。




プライバシーの新しい定義 

プライバシーの定義を再考する中で、私は従来の捉え方に限界を感じていた。多くの人々がプライバシーという言葉を聞いたとき、まず思い浮かべるのは個人情報の保護や、他人に知られたくない秘密を守ることだ。しかし、これはプライバシーの一側面に過ぎない。

そこで私は、プライバシーを「感情型プライバシー」「独立型プライバシー」という2つの概念に分類することを提案したい。

感情型プライバシーは、我々が日常的に使用する、より一般的なプライバシーの概念だ。これは情報を知られることに対する嫌悪感や不快感を中心とする。個人情報の流出や芸能人のゴシップに対する反応がこれにあたる。

一方、独立型プライバシーは、より本質的で深遠な概念だ。これは情報が恣意的に利用されたり、それによって管理されたりすることへの対抗策として機能する。つまり、権力や外部からの不当な干渉から自己を守り、真の意味での自由を確保するためのプライバシーだ。

これら2つの概念を区別することで、プライバシーの役割をより明確に認識できると私は考える。しかし、両者は本質的には同じものであり、相互に干渉し合っていることも忘れてはならない。

自由という概念自体、ある意味で幻想的な性質を持っている。人々が自由であるべきだと信じるからこそ、自由は存在し、権利として認められる。感情型プライバシーが侵害されることで、我々は自由が損なわれる可能性を無意識的に感じ、それが嫌悪感につながる。同時に、独立型プライバシーを考える上でも、この感情的な要素は無視できない。自由であるべきという感情があるからこそ、独立型プライバシーの重要性が認識されるのだ。

この2つの概念を分けて捉えることで、プライバシーに関する議論をより具体的かつ建設的に行えるようになると私は確信している。例えば、SNSでの個人情報の取り扱いを考える際、単に情報が公開されることへの嫌悪感だけでなく、その情報が将来的にどのように利用され得るかも考慮に入れることができる。

また、監視カメラの設置に関する議論でも、単に「見られたくない」という感情だけでなく、監視されることで行動の自由が制限される可能性についても議論を深めることができるだろう。

このように、プライバシーを感情型と独立型に分類して考えることは、プライバシーの複雑な性質をより良く理解し、現代社会における様々な課題に対処するための有効なアプローチだと私は考える。この視点を持つことで、プライバシーに関するより深い議論と、より効果的な保護策の策定が可能になるはずだ。私はこの考え方が、プライバシーの本質的な価値を再認識し、適切な議論を促すための新たな視点として受け入れられることを願っている。​​​​​​​​​​​​​​​​

次は、この考え方をした上で、実際にどのようにしてプライバシーを守っていくのかについて話していく。



プライバシーを守るためには

プライバシーを実際に守るために最も重要なのは、監視者自身への監視の必要性だ。単に監視者の善意や規範に依存するのではなく、システムとして監視者の不正利用を防ぐ仕組みが不可欠だ。これは、「信頼に頼らない」設計の重要性を示している。

この考えを表現するのに適した比喩として、銃規制の例がある。
もし、あなたが銃を持った男と同じ部屋にいたとしよう。その銃を持った男はすごく温厚で良心的で、とても銃を打つような人には見えない。しかし、だからといってあなたは「彼なら大丈夫だ」と言って安心し切ることはできるだろうか?常に、もしかしたら撃たれるかもしれないという恐怖で心労が絶えないだろう。

監視に関しても同様のことが言える。
「監視システムを運用する人が善意であれば問題ない」という考えは危険である。重要なのは、そもそも不正使用が不可能な構造を作ることだ。そのためには、アーキテクチャによる制約が重要だと考える。つまり、技術的・構造的に不正利用を防ぐ仕組みだ。同時に、監視の透明性を高めることも不可欠だ。誰が、いつ、どのデータにアクセスしたかを詳細に記録し、第三者的に監査する仕組みが必要だ。これにより、不正使用の抑止と早期発見が可能になる。

監視の変化


結論として、これまでは、プライベート空間では監視が正しい使われ方をしないがために、安全を守るための監視が不足していた。しかし、実はその原因は、監視者の監視が不足していることにあったのである。つまり、安全を守るための監視とプライバシーを守るための監視、この両方が同時に必要不可欠であるということだ。これらを適切に設計し、バランスを取ることで、真に効果的で公正な監視社会の実現が可能になる。そして、このアプローチこそが、現代社会が直面する監視とプライバシーのジレンマを解決する鍵になると私は確信している。​​​​​​​​​​​​​​​​



現代社会の危険性

監視に迎合する人々

しかしながら、現実として今多くの人々は監視を積極的に受け入れようという流れにあると私は感じている。監視に迎合する人々の存在は、現代社会の複雑な様相を反映している。私はこの現象を深く考察してきた。

まず、安全を求める心理が、監視への抵抗を弱めている点に注目したい。人々は、テロや犯罪の脅威に対して不安を感じ、その結果として監視カメラの増設や個人情報の提供を受け入れる傾向がある。「安全のためなら仕方がない」という思考が広がっているのだ。


監視に対する賛成がSNSでは多数見られる


さらに、便益のために個人情報を差し出す行動も顕著だ。これは監視資本主義の本質そのものだ。例えば、無料のサービスと引き換えに個人データを提供することを、多くの人が躊躇なく行っている。便利さや経済的利益が、プライバシーの価値を上回ると判断しているのだろう。

この状況は実は、残念ながら動物園の動物やペットに近いのかもしれない。彼らは安全と快適さを得る代わりに、自由を制限されている。人間社会も同様に、快適さと引き換えに自由を手放しつつあるのではないだろうか。このようにトレードオフでプライバシーを差し出し、人々が監視を受け入れる流れがある中、私はそもそも安全とプライバシーが天秤にかけられ、どちらか一方を選ばなくてはならない状況そのものが問題だと考える。



天秤にかけられる危険性

この問題の核心は、安全とプライバシーを二者択一の関係として捉える傾向にあると考える。この二元論的な思考は、問題の本質を見誤らせる危険性がある。

「安全のため」という謳い文句は、監視社会を正当化する際によく用いられるが、これは極めて短絡的だ。安全とプライバシーを天秤にかけ、どちらかを犠牲にしなければならないという常識自体が問題だ。

天秤にかけられる安全とプライバシー

この状況は、寒さと乾燥の問題に似ている。寒いから暖房をつけると寒いという問題は解決するが、それと同時に乾燥するという新たな問題が生じる。しかし、我々は単純に「寒さを我慢するか、乾燥を受け入れるか」という二択で考えてしまいがちだ。実際には、暖房をつけた上で加湿器を使用するという両立策があるのだ。同様に、安全とプライバシーの問題も、両者を両立させる方法を模索すべきである。

また、監視の導入プロセスにも注意が必要だ。最初は「安全のため」と言われ導入されても、人々が監視に慣れると、その目的が徐々に拡大していく危険性がある。例えば、テロ対策として始まった監視が、やがて一般市民の行動管理に使われるようになるケースもある。

このような事態を防ぐためには、監視システムの目的や範囲を明確に定義し、それを逸脱した使用を禁止する厳格なルールが必要だ。同時に、システムの運用に関する透明性を確保することも重要だろう。

つまり、安全とプライバシーを対立させる二元論的思考から脱却し、両者を両立させる方法を積極的に探求することが必要である。これは容易な課題ではないが、技術の進歩と社会の知恵を結集すれば、必ず実現可能な目標だと私は信じている。
私たちは、より良い未来のために、この挑戦を恐れてはならない。両立する選択肢の提示とその模索こそが、現代社会に求められている重要な課題なのだ。​​​​​​​​​​​​​​​​

しかしながら、現状では監視への抵抗としてプライバシーの重要性を感情的に訴えるだけで、論理的な批判も少なければ、非現実的な解決策しか示さないケースが多い。私もプライバシーの重要性は十分認知している。だからこそ、今の監視批判のあり方には一石を投じたい。



感情的な監視抵抗への批判

単純な感情論に基づいた監視への抵抗は、もはや説得力を失いつつある。「監視は不快だから」という主張だけでは、論理的に安全性を優先する議論に太刀打ちできない。1984年に描かれたような古典的な監視社会のイメージが現代社会にそぐわなくなっていることも、この問題をより複雑にしている。

現代社会では、安全への要求が過度に高まっている一方で、監視資本主義の下で人々は監視と引き換えに様々な便益を享受している。人々は監視されることに慣れ、それを受け入れる傾向が強まっている。

このような状況下で、単に「監視社会は悪だ」と主張しても、もはや説得力を持たない。監視カメラの設置に感情的に反対しても、安全性の向上という論理的な主張には勝てないのが現状だ。

そこで必要なのは、論理的な批判と、監視がもたらす効果を実現できる代替案の提示だ。つまり、監視社会への批判は、単なる感情論や古い概念に基づくものではなく、現代の技術と社会の実情を踏まえた論理的なものでなければならない。そして、批判だけでなく、具体的な代替案を提示することが重要だ。このアプローチを通じて、我々は安全とプライバシーが両立された、より良いバランスの取れた社会を構築していくことができるだろう。​​​​​​​​​​​​​​​​



Kosmosと理想の社会

Kosmos

安全とプライバシーが二者択一になっている。
感情的な監視批判しかなされていないことによる監視迎合の波。
そんな現状を変えるため、監視の恩恵にあずかりながらも監視の危険は排除する、私はそんな代替案を具体的に提示すべくKosmosという組織を立ち上げた。

私たちはKosmosを通じて、安全とプライバシーが天秤にかけられるのではなく、その両方が守られる新たなソリューションを提案したい。また、新しい監視やプライバシーのあり方を再定義し、ひいては新しい秩序をデザインする存在としてKosmosを位置付けて、安全で自由な社会の構築へ貢献してゆく。

安全とプライバシーの両方が守られる

そもそも組織名のKosmosとは、古代ギリシャ語で「秩序」「調和」という意味があり、秩序ある、調和の取れた宇宙の様子から名付けられた。「混沌」という意味を持つ『chaos』の対義語である。また、花のコスモスも秩序を感じる咲き方をすることから『cosmos』と呼ばれている。私たちは、暴力の蔓延や監視の横行している現状を「秩序の欠如」「過度な秩序」と捉えており、人々が恐怖や服従を強いられている危機的状況を変革しなくてはならない。そのため、私たちは「安全」と「自由」の両方が守られる新しい秩序をデザインしていくという意味を込めて、組織名をKosmosと名付けることとした。

Kosmos

次に、そんな新しい秩序をデザインする存在として、私たちが「Kosmosを通じて目指す社会」と「実際に提案する新しいソリューション」を提示したい。



Kosmosが目指す社会

まずは、私たちがKosmosを通じてどのような社会を目指しているのか、どのようなビジョンを持っているのか、どのような価値観を持っているのか、について、掲げているパーパスやMVVを紹介する。

Kosmosのパーパス&MVV

これらミッションやビジョンを実現する第一歩として、私たちは「安全かプライバシーのどちらかは犠牲にしなくてはならない」という従来の悲しい常識を覆す、革新的なカメラを開発した。



第3の選択肢 「プライバブルカメラKosmos」

監視及びカメラの歴史を覆す革新的なカメラ。それが「プライバブルカメラKosmos」である。


プライバブルカメラ Kosmos (仮)


このプライバブルカメラは、「安全もプライバシーも両方守られて当たり前」という新しい常識を作り出す、安全とプライバシーが天秤にかけられない唯一のカメラである。プライバブルカメラはプライバシーも守ることが可能である新しいカメラだ。


ブロックチェーンを用いることで、アーキテクチャによって監視者が自由に監視することを防ぎ、常に見られている感覚をなくすことができる

これを実現するために、最も重要な「問題があった時以外は”絶対に”映像を閲覧されない仕組み」を、人間に信頼点を置いて構築するのではなく、ブロックチェーンによって自動で映像を管理するシステムで構築している。ブロックチェーンの非中央集権性や、それが改ざんの不可能な仕組み等によって信頼が生み出されている点においても監視の問題とシナジーがある。

従来のカメラとの違い

ブロックチェーンとは、問題があった時以外絶対に開かない箱のようなもので、映像はその箱の中にカメラから直接自動で入れられていく。これにより、これまで監視者が自由に閲覧できていたのが、Kosmosでは、問題があった時しか絶対に閲覧できないようにしていることを技術的に保証することができる。

“問題があった時以外には絶対に開かない箱”


また、何を問題とするかの判断は、事前に組織全体で合意が取られたルールに基づいており、自動的に閲覧理由が適切かどうか判断される。

その上でさらに、監視される者が抱える「本当に見られていないのだろうか」という漠然とした不安も払拭するため、普段は絶対に見られていないことをアプリを通じて、監視されている者が視覚的に確認できるようにした。これは同時に、監視者の監視としても機能している。

視覚的に確認できるアプリ


従来は、カメラを設置するor設置しないの2択しかなかったが、そこに監視の民主化するプライバブルカメラの存在があることによって、「カメラを設置しても問題が発生しない」新しい第3の選択肢を提示していく。

しかし、様々な現場においてこのカメラが他のカメラを差し置いて選ばれ、実際に設置されなければ、監視の民主化は進んでいかない。そこで、このカメラを普及させ、一人でも多くの人々が暴力や監視の悪用によって脅かされない社会を作るため、私は社会起業という選択肢を選択した。以下でその理由について述べる。




社会起業という手段

改めてになるが、Kosmosが目指す社会を実現するためには、たくさんのミクロな現場でカメラが設置される際にこのカメラが選ばれることが必要不可欠だ。そのためには、1. 影響力が大きいこと 2. 自分達の意思で持続的に提供できること の二つが重要である。

この目標を達成するためには、市場の力を利用してビジネスの力で普及させるのが最適解である。また、これを実現しなくてはならないという使命感を強く持った自分達が、自分達の意思で持続的に提供できることも重要だ。NPOやNGOのように、他存在に自分達の存在や活動を制限させてはならない。

これらの理由から私はKosmosを起業という手段で活動することにした。

しかしながら、そもそも起業(ビジネス)は理想の世界を実現する手段に過ぎない。起業家には商人と革命家の二つの側面があると私は考えているが、私は商人であるよりもどちらかと言えば革命家や思想家でありたい。なぜなら、顧客に迎合するだけでなく、専門的な視点から本当に人々や社会のことを考えて、自分の哲学に基づき社会課題を解決したいからである。そのためビジネスを手段と利用し、当然収益性を十分に確保しながらも、社会をより良い方向へ変革することを目的として社会起業に取り組んでいきたいと考えている。

3つの視点から社会を変革する



目標と展開

最後にKosmosの今後の目標と展開について、以下のように構想している。

我々の理想を実現するためには、従来の監視カメラではなく、監視が民主化されたプライバブルカメラKosmosが広く選択される必要がある。そのため、Kosmosを世界で最も選ばれる防犯カメラにすることを目標に掲げている。

この目標達成のために、Kosmosの認知度向上と同時に、人々の監視に対する意識変容を促進していく。我々は単なる防犯会社やプライバシー会社ではなく、世界初の"監視"に真正面から取り組む企業として、新たな価値を創造していく。

現在、保育現場をファーストマーケットとして展開しているが、今後は福祉や教育など、あらゆる分野での導入を目指す。

保育現場にとどまらず、あらゆる現場へ

さらに、カメラという領域にとどまらず、プライバシーの重要性を社会全体に浸透させていきたい。人々にとって最もイメージしやすい映像データから着手し、監視に対する正しい理解と意識改革を推進することで、様々な現場における監視の問題解決にも貢献していく。Kosmosは、安全と自由やプライバシーが両立する新時代の礎となるはずだ。

我々の挑戦は、単に優れた製品を提供するだけでなく、社会のあり方そのものを変革する可能性を秘めている。Kosmosを通じて、より自由で安全な社会の実現に向けて邁進していく。​​​​​​​​​​​​​​​​




最後に

私たちKosmosは、監視に伴う諸問題を解決し、新たな社会秩序をデザインすることを使命としています。しかし、この理想の実現は我々だけでなし得るものではありません。真の変革は、社会を構成する一人一人の意識と行動から始まります。

社会の各構成員が監視の問題を適切に認識し、声を上げていくこと。管理者の立場にある人々が、安全とプライバシーの両立に真摯に向き合い、賢明な選択を行うこと。これらの積み重ねが、より安全で自由な社会の実現への道を拓きます。

私たちは、Kosmosを通じてこの変革の触媒となることを目指しています。しかし、最終的にこの新しい秩序を形作るのは、社会に生きる人々自身です。一人一人が主体的に考え、行動することで、監視とプライバシーのジレンマを乗り越え、真に調和のとれた社会を創造できるはずです。

Kosmosは、この壮大な社会実験のパートナーとして、技術と理念を提供していきます。共により良い未来へと歩みを進め、新たな秩序をデザインしていきます。そんな未来を、我々は心から願い、そしてその実現に全力を尽くす所存です。​​​​​​​​​​​​​​​​
「安全とプライバシーの両方が守られる」そんな魅力的な社会を、私たちと一緒に創っていきましょう。


ここまで読んでくださり本当にありがとうございました!


その他

Ideas for good様に取材していただいた記事です。ぜひ合わせてご覧ください。



何らかの形でご協力いただける方は以下にご連絡いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

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