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喜び 悲しみ 心ゆがめても(音楽活動 今昔物語2)

前回の今昔物語1は、ノート過去記事よりご覧ください。
ずいぶん前回の記事から時間空きましたが、お読みいただけると幸いです。


バンド。

大学時代、音楽関係で最初に仲良くなった友達が、能登くんという男の子で、BUMP OF CHICKENが大好きだった。
とにかく普通すぎるやつで(いい意味です)、音楽の嗜好も似ていたし、とにかく大学で会ったら四六時中ギターの話をした。彼がいなかったらこんなに大学で音楽をエンジョイできなかったと思うので、とても感謝している。
今どこで何してるか知りません。情報求む笑

僕の行ってた倉敷芸術科学大学は、まだまだ大学ができたばっかりで、僕が6期生。それでも芸大ということで、本当にいろんな同級生・先輩に恵まれた。
軽音楽部には2年生から入ったけど、先輩にはゴーストノートのベーシスト佐藤氏や、TheBaamusicがいて色味はかなり濃密だった事を記憶している。

もともと、そんなに音楽の友達が多くなかった自分も、普段のソロ活動以外は、この軽音楽部でバンドをしてました。
みんな学生ならではの、お酒飲みながら、ぐでんぐでんになりながら毎日ライブという、今考えたらまあまあコンプライアンスアウトな感じでした。(僕はこのころから下戸です)

後輩が入ってくると毎日年齢問わず色んな人と音楽にどっぷり使った生活を過ごした。本当にいい時間。
今も付き合いのある人もいて、とても感慨深い。みなさんありがとう。こんな俺と仲良くしてくれて。


烏雀 karasuzume

19歳の時、ヤマハがやっていたTeens Music Festivalという勝ち抜け型オーディションイベントに参加させてもらった時、花月草子(かげつそうし)という3人組バンドに出会った。
そのギタリストである土屋雄太氏と、最初はバンドじゃない弾き語りをやるというところから烏雀ははじまります。彼はのちにコンビニマンションテクニカラーというバンドで、島村楽器のHOTLINEで全国優勝。先に紹介したTeens Music Festivalでも華々しい活躍をして、岡山の音楽シーンに燦然と輝く才能となった人物です。

2003年だったか2004年だったか、岡山高島屋の前のルイヴィトンの看板の前で一緒に初めてギターを鳴らした時は、それはそれは衝撃というか、才能を真横で感じたというか、これは当事者にしかわからないなんとも言えない感覚に襲われました。お互いの活動の片手間に、気が向いたらする程度の活動でしたが、気楽であり楽しかった。もうこれから先こういう感覚は味わえないかもしれない、不思議な感覚。いい経験だったと思います。
その後、バンドという形になり、1年に1回くらいの超絶レアバンドとしてイベントを企画していました。活動の最後には、岡山県井原市で開催されているhoshiotoにも出演。あれがこのバンドのピークであり、それ以上望まない形だったのかもしれません。それ以来活動もしていません。
でも本当に、たくさんの思い出とたくさんの景色を見せてくれたバンドでした。
改めて感謝します。ありがとうございました。


あなたにとって音楽とは?

17歳の時に、夜中一人で電車に乗って街のど真ん中で歌い始めた事。宮川大助・花子さんが、僕の歌っている前にちょこっと座って、1曲聴いて「寒いけど頑張りや」と声をかけてくださった事。お仕事だけど、憧れの吉川忠英さんにお会いして、CDを手渡しできた事。高校卒業して初めての路上ライブを聞いてくれたお客さんといまだに繋がれている事。ゆずが演奏していた横浜に行き、そこで演奏できた事。TVに密着されて、自分のドキュメントが全国ネットで流れる感覚。たくさんの音楽仲間ができたこと。そして忘れることのできない別れもあったこと。
こんなこと、誰もが経験できることじゃないですよね。
それだけ、僕にとって音楽はたくさんの経験をもたらしてくれました。
若気の至りでいっぱい粗相もしたと思います。恩人にきちんとした対応できてなかったところも多かったと思います。
みなさんごめんなさい。迷惑かけてすみません。
こんなこと言うのもアレですが、それも経験になりました。

また音楽やりたい気持ちはあるけれど、きっとそれは断続的に続く活動ではなく、本当にちょこちょこ。時々演奏したいなと今も思っています。
ニーズあれば笑

なんだかまとまりのない文章になってしまいましたが、これが音楽の「俺のすべて」です。このころがあったから今がある。
一生忘れないように、今の自分の糧にしていきたいと思います。
音楽ありがとう。
僕にとって音楽とは、一言では言い表せません。
ありがとう。ありがとう。


岸本ヒロキ


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