「感想」が書けないひとのために

 感想が書けない、と妻がこぼしていた。なんでも、友人と話していると、誰それの影響を受けているだの、系譜だの、聞くらしい。妻は真剣に悩んでいるという。本でも映画でも、基本的に「面白かったなあ」以上の感想を抱かない。妻のような悩みを持つひとは多いのだろうか。ここはひとつ、役に立つアドバイスをしてみたい。

 わたしは中学生時代からあまたのハンドルネームを作っては破棄を繰り返してきた。ほとんどの場合、ハンドルネームと、ブログのプロフィールページと、大長編の記事を1つか2つ書くと満足する。そしていつしか忘れ去られ、思い出したときにアカウントが破棄される。まれに、超大作が生まれず、破棄もせず続くことがある。このアカウントはどうなるのだろうか。

 そんなわたしからのアドバイスは2つある。ひとつは「感想を持つことが偉い」という信念を捨てることだ。この信念は学校教育の悪しき弊害である。日本人は読書感想文で原稿用紙2枚以上、できれば3枚書くのが良いとされて育ってきた。夏休みの宿題というわけだ。教師は褒めてくれるが、教師の褒める人間が優れた人間だというわけでもない。もちろん、感想文の長さと人間的な厚みも比例しない。

 もうひとつは、作品から受け取った感想を書こうとしないことだ。感想がないと悩むかたは誤解しているのではないか。だいたい、感想を話すのが好きな連中というのは、はじめから話したいことが頭のなかにある。作品を読んだら、まるで酒の入った説教親父のように、巧妙にいつもの自分語りを始めるのだ ── もちろん、自分語りには酒も年齢も性別も関係がなく、これは差別的な決めつけである。撤回するとして、とにかく連中は豊かな感受性でもって感想を考え出しているわけではない。これを心に留めておこう。

 だいいち、書いて誰が喜ぶというのか。わたしは誰かが書いていたからといってべつだん嬉しくない。誰かが読んでくれれば嬉しい。書かなくていいのではないか。どうしても書きたいのなら、あらかじめ社会への不満や人間関係の秘訣、散歩中に思いついた皮肉などを覚えておこう。そして何かを目にした折に、いま思いついたぞという顔をするといい。なにも思いつかなければ、文体を「ですます調」から「である調」に改めよう。内なる知性が目覚め、ユーモアのセンスが光りだす。どうだ、この記事もユーモアたっぷりだろう。


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