【表現研】僕が僕であるためにとwe are the championから見る二人の苦悩の形とは

「僕が僕であるために」。誰もが一度は聞いたことがあるのではないか。

一方でQueenの「We are the champions」も音楽誌に残る名曲として誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。

Queenファンのわっちはこの二つの歌詞の類似性とシンクロ部分に気付いた。
以下は二曲の歌詞の比較である。

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英語が苦手な人はごめんね、先に和訳したものかなんかをみてきてね。

互いにサビ前までは自分の歩んできた道に目をつけサビでは「勝利」を謳い、二番目の歌詞では「君」「you」を引き合いに出し、愛・感謝を語るところが共通している。
それが歌詞選びの定石なんやでと言われればそれまでだが、そもそも「俺達がチャンピョンだ」「俺は勝ち続けないといけない」と声高に主張する歌はこの2曲以外パッとは浮かんでこない。その二曲が、しかも時代も生まれ育った国も違う二人のミュージシャンが同じような内容を、順番も揃えて歌い上げているのはなんともロマンのある話ではないか。

しかし歌詞をよくよく味わってみると結構テーマは違っていたりする。

まず僕が僕であるためにからみていこう。

1番のサビ前までは自分にとっての思いやりが相手にとっての凶器になりうるという、「他人とわかり合う事の難しさ」を歌っている。
そしてサビ。僕を理解できるのは僕だけなのだから、強くいなきゃいけない、少なくとも人と分かり合えるという事の答えが見つかるまでは、という個の存在としての「自立」を歌っている。
2番は恋人?が絡んでくるがまぁ主張は似たようなものであると思う。

今度はQueenを見てみよう。以下要約。


負けることもあったし恥もかいてきたけど、戦うのはやめないぜ!俺”たち”がチャンピョンだ。ベイビー君は幸運も名声も運んでくれたね、ありがとう俺はスターになれたよ。でも最初からお膳立てされたような楽な道では決してなかった。自らの手で切り開いてきたし、これからも切り開いていくぜ!俺たちがチャンピョンだ!

このwe are the champion は様々な憶測がファンの間では流れている。今まで散々コケにしてきたクソ評論家たち(当時本国イギリスの評論家達はレッドツェッペリンの二の舞だの女々しいだの言ってあまり評価してこなかった)への歌だという説もあれば、「ロックの流行の波に押されないようQueen達自身もロックで対抗。その決意表明の歌」であるとか、このwe are the championの発表前後に男色を告白したフレディ=マーキュリーの葛藤の歌であると言った説まで流れている。
この歌について作詞作曲のフレディが明言したことはないが、「彼の強い個性と周りとの衝突」がこの歌の要素のうちの一つであることは、たれも否定しないだろう。また、この歌の中で留意すべきは「俺」がチャンピョンだ!ではなく「俺達」がチャンピョンだ!となっていることである。これはQueenのメンバーを含めた、他という「存在」に苦しみ、戦う人、お前達全員チャンピョンだぜ!と言っているのだ。これは”終わり”まで戦うことにもなるし、”全人類への戦い“でもあった。

尾崎豊は、他人と相互に解することの難しさ、どうやっても大切な人を傷つけてしまうことに苦しみ、それ故自分を保つ大切さを
フレディ=マーキュリーは「己の個性と周りとの衝突」と戦う人を友と呼び、また自分自身も戦い続けていくことを
2人ともわざわざ歌にして声高に主張した。

誰が彼らの歌を負け惜しみであるとか、敗者の歌であると言おうか。両者とも時代を超えて人を惹きつけ、また両者ともその命を常に燃やして生きていたシンガーソングライターであった。
己の強さを歌ったこの両者は、奇遇にも共に早い死を迎えるのであった。

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