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「わからない」ことを「分けて」「分かち合う」

どうしても、「わかる」と「わからない」で私たちは分けてしまいがちだが、それだと「わかる」ことばかりが目的化してしまい、「わからない」ことと向き合えなくなってしまう。

本当に重要なのは、「わからない」ことを「分ける」こと
そしてその「わからなさ」を他者と「分かち合う」ことではないだろうか?

そんな風にふと感じたので、整理をしてみました。


1. 新しく見つかったわからないこと着目する

著書「リサーチ・ドリブン・イノベーション」でも書いたけれど、わからないことには、既に知っていた「わからないこと」と、知らなかった「わからないこと」があるはず。

だからこそ、新しく「わからないこと」が見つかったこと自体を、まずは歓迎すべき。


2. わからないことが自分にとってどんなものか分ける

「わからない」というもの自体も、考えたくなるものなのかどうか、手がかりがあるのかどうか、という2軸で「分ける」ことができる。

自分にとって、今抱えている「わからないこと」が
1. 仮説があって検証してみたいものであれば、検証を進めてみること

2. 興味はあるが解像度は甘いものであれば、解像度を上げるために行動してみること

3. 思い当たる節はあるが、考える意味を感じられないものであれば、そこに意味を感じていそうな人に、手がかりを開いてみること(もしかしたら、意味を感じられるかも知れない)

4. 見当もつかないし、探ってみようとも思えないことであれば、素直にそれを伝え、許容すること(そのうち何か見えてくるかも知れない)


自分の感じている「わからない」はどれなのか、それをしっかり「分ける」ことで、取るべきアクションが見えてくる。
「わからない」と言われた時は、その人の「わからなさ」を「分ける」手伝いをしてあげること。


3. わからないを「間違っている」と一概に捉えない

自分が「わからない」と感じたことを、安直に「間違っている」と断定してしまっては良くない。

「わからない」となったときに、安易に探索をやめてしまうことにも繋がりかねない。

あるいは、相手の言っていることが「わからない」となった時に、それを「間違っている」としてしまっては、単に分断が広がるだけ。


4. わからないを「考えていない」と一概に捉えない

「わからない」となった時に、ちゃんと考えていないからだ、と決めつけてしまうのも良くない。

もしかしたら、その「わからない」の中には、ほんの少しの関心や手がかりが立ち上がっているかも知れない。

他者がそれを、「考えていない」と決めつけてしまっては、その関心や手がかりさえも失われてしまう。

それを言われた本人も、「ちゃんと考えるまでは話してはいけない」となってしまっては、生煮えに「わからない」ということを開くことができなくなってしまう。


「わからない」を「分かち合う」

世の中のほとんどは、「わからないこと」だらけ。
互いの「わかる」の重なるところだけを探っていては、広大な「わからない」の世界には踏み出せない。

互いの「わからない」ことを「分かち合う」ことから始めれば、「わからない」ことを見つけることが価値になる。そんな営みを積み重ねる文化をもつことが、不確実な状況と向き合うためには欠かせない。

「わかる」ことを積み重ねることは否定しないまでも、ただそこに閉じこもっていては、次第に考えは固着化してしまう。

「わからない」ことと上手に向き合えば、一緒に「わからない」ことと向き合ってくれる仲間が集まってくる。

相手に呆れられるのでは?と恐れずに、「わからない」ことを積極的に「分かち合える」社会こそ、創造的な関係性になっていくのではないだろうか?


みなさんからいただいた支援は、本の購入や思考のための場の形成(コーヒー)の用意に生かさせていただき、新しいアウトプットに繋げさせていただきます!