あやかさん4

『僕が何千マイルも歩いたら』

たまに書きたくなる心の中の鬱憤のようなものや
バカバカしいことをこのシリーズに書いておこうと思う。ほんとどうでもイイ事なので週刊誌の適当なところにあるコラム的な扱いで構わない(失礼かよ)。日記みたいなもんだ。毎日は書かないけど。
内容がかなりプライバシーにも直結したり、クソダサいのであまり間に受けず、ああ、そういう一面あるのね程度にどうぞ。

僕は音楽が好きだ。かといって小洒落たクラシックやジャズをソファに腰掛けて聴き込む様なのではなくて(いや、それらも好きよ?ただ詳しくないのよ)昔から好きな邦楽のバンドやアーティストさんが好き。やっぱり日本人なのでどうしてもスっと意味が心に届くのがいいんだろうと思う。(意味の受け取り方はそれぞれだけど)

で、すきなバンドに『くるり』さんが居るのだけど
その曲の ワンフレーズを表題にした。この言葉。ちょっと長く書いたら

「僕が何千マイルも歩いたら 手のひらから大事なものがこぼれ落ちた
 思い出の歌 口ずさむ 繋がらない思いを 土に還した」
「つまらい日々を小さな体に擦り付けても減りはしない 少し寂しくなるだけ」
「僕が何千マイルも歩いたら どうしようもない 僕のこと認めるのかい
 愛し合おう誰よりも 水たまりは希望を 写している」
「矢のように月日は過ぎて 僕が息絶えた時 渡り鳥のように 何くわぬ顔で
 飛び続けるのかい」

生きてるだけで進んではいるんだけど、それは時間が進んでるって意味で、中身とか自分の成長とかそういった類は自分じゃそうそう分かんない。
人に言われてはじめて気づく位だ。
でもって、人が抱えられる荷物には限界があるのよね。その人のガタイとか器によるけど、限界はある。いくらマッチョメンでも常時100キロの荷物持って歩けるかといったらきっちい。

そんな中、たまに聴きたくなる曲で「僕が何千マイルもあるいたら~」て聴こえてくる。どんだけがんばってもこぼれ落ちてるモノや思いはあるし、歩いてること自体がすげえよ?と認めてくれるかといったらそれも無いでしょう。こぼれ落ちたものが水たまりになって思い出が残って、また忘れていく。そんなもんなんでしょうねって思う。

今結構全力で生きてるつもり。けどこれも「つもり」なのよ。別の人から言えば全力なんてのはそんなもんじゃねえってなるし。
家っていう場所が安心とか休まる場所としてあるじゃろ?と言われても、そりゃあんたらはそうかもしれんね。と思ってしまうぐらいには荒んでることもある(笑)。子供はかわいいけど。そりゃかわいいけど。

正直、いつどうなってもおかしくない仕事してるし、無理な時が来たら雇われ業務に戻らないとな。とはいつも思ってる。
みんなキラキラ、楽しく生きてるなんてのは幻想だ。結構な割合の人はギリギリでやってる。けど死ぬほどにはならない。素晴らしき国だ。

まあけど『何千マイルもあるいたら』という感じで、ぎりぎりまではやってみる。癒しなんてもんはそうそうない。某ロールプレイングゲームよろしく宿屋でHPとMPが満タンになることなんかない。

最後、息絶えたとき、それでも何くわぬ顔で世界はまわる。
その程度の存在なんだし、気にせずやってやろうじゃないか。

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