遺跡に対する感度の鈍さ ― エローラとアジャンタ石窟群を見て 【世界旅行記067】
2012年11月14日(水) アウランガバード
ムンバイから夜行バス(初のスリーパーバス:座席ではなくベッド仕様)に乗って北東へ約350キロ、デカン高原に位置するアウランガバードへやってきた。この町を拠点に、2日かけてエローラとアジャンタの石窟群を見てまわった。これらの世界遺産には、崖や渓谷の岩をくり抜いて作られた石窟寺院(僧院や仏塔)の遺跡の数々がある。
アウランガバードからエローラへは車で片道1時間、アジャンタへは2時間かかる。アウランガバードでは、ダウラターバード(岩山の砦)とビービー・カ・マクピラーを見てまわった。後者は「ミニ・タージ・マハル」の呼び名で有名な廟だが、実際に訪れてみると大理石が使われているのは足元とドームの部分だけで、迫力にはやや欠けるものであった。
さて、エローラもアジャンタも、さすがに見ごたえはじゅうぶんだった。いちばん見たかったエローラの第16窟、カイラーサナータ寺院は、ほかの石窟と違い、横からでなく上から岩を掘って寺院を形づくっている。建築物は平面の上に積み上げてつくるもの、という先入観をみごとに裏切ってくれる。マイナスの発想で作り上げられた寺院の様子は、崖の上から眺めると、なおさら鮮明によくわかる。気の遠くなるような作業の連続を想像して、自分だったらぜったいにこの工事に参加したくないと思った。上に付け足していく建築物と違い、一度掘りすぎてしまったら、やり直しが効かないのだ。小さい頃に、よく消しゴムをカッターで削ってハンコを作ったのを思い出した。スケールはまるで違うが、マイナスの発想は一緒だと思う。一度削りすぎた消しゴムは、二度ともとに戻らない。あのときの悲壮感を思うと、エローラをつくった職人の根気のよさに脱帽する。しかも、最後まで見届けられなかった人だってたくさんいるのだ。やっぱり、そんな先の見えない労働は、自分にはできない。
エローラの石窟群は、時代を追うごとに、仏教(1〜12)、ヒンドゥー教(13〜29)、ジャイナ教(30〜34)と変化していく。仏教石窟である第10窟に入り、正面奥に鎮座する仏像を見たとき、その穏やかなたたずまいに、ふと心が安らいだ。こういう瞬間、ああ、やはり自分は無意識的に仏教徒なんだなと思う。ヒンドゥー教のカミサマを見るときとは、その受容態度や安心感が明らかに違う。
翌日訪れたアジャンタの石窟群は、見晴らし台から遺跡全体を眺めたとき、そのスケールの大きさに、思わず「むむむ」と唸りそうになった。どうしたってこんな巨大な渓谷に30もの石窟を掘ろうと思うのだろうか。たとえそれが成り行き上、増えていったものだとしても……。
というわけで、エローラもアジャンタも、一生に一度見るだけの価値はあったと思う。が、だからといって、もう一度見たいとは思わない。炎天下、クタクタになりながら歩きまわり、帰りの車のなかではもうグッタリ、ただひたすら眠るだけ。じっとりとした汗を感じながらの観光は、とても快適とは言えない。まだ若いから体力勝負でいけるが、年寄りなら、なおつらいだろう。途中で熱中症で倒れてもおかしくない。
そしてそれ以上に、こうした過去の建築物をみるたびに思うことがある。それは、しょせん「遺跡」だということである。遺跡というのは、もういまは使われていない場所、現役を引退した場所を意味する。
実はわたしはこういう遺跡を見ても、毎回、どうもピンと来ないのである。エローラもアジャンタも、現役で使われていた頃は、壁や柱が極彩色に彩られていたという。だから、いまの灰色に色褪せた建物は、当時とは違うものなのである。当時とは違うものを見て、なぜ現代の人々は感動できるのか。当時の姿に思いを馳せる想像力が、わたしには著しく欠如しているらしい。こんな灰色や茶色の塊のどこが魅力的なのかと、いつも感じてしまう。
この石窟が現役で使われていたら、それはとても魅力的な姿だろうと思う。極彩色の僧院のなかで、修行僧がいまもお経を唱えていたり、食事をしていたり、そういう生活感が感じられれば、この石窟の持つ意味合いがもっとよく理解できるだろう。いまは使われていない遺跡からは、「人」が感じられない。だから、わたしには魅力的に映らない。わたしが建築物を見て感動するのは、そこに生きている人々がいるときであり、建築物も「生きている」と感じられるときなのである。
たとえば、バラナシのガンジス河に連なるガートは、いまも現役でヒンドゥー教徒に日々使われている場所である。だからどんなに汚くても、それらの建築物が人々とともに「生きている」のが感じられて、それが感動を呼び起こす。ブッダガヤのマハーボディー寺院も、いまだに人々が崇め、参拝に訪れ、瞑想に耽っている。だからこそ、美しく見えるのだと思う。日本で言えば、今年見に行った奈良・東大寺二月堂の修二会(お水取り)は、それはそれは感動的だった。なぜなら、二月堂が現役の建築物であり、いまもそこに人々が息づいているからである。そして、その二月堂を舞台に僧侶が祈りを捧げる姿を、この目で実際に見たからである。
遺跡を見るときにガイドを付けてまわれば、せめて知見はもう少しは増えるかもしれない。ただ、それでも「感動」には容易につながらないと思う。灰色や茶色に色褪せた遺跡から、当時の様子や人々の姿をリアルに思い浮かべられるほどの想像力がわたしにも備わっていれば、もっと遺跡を楽しめるようになるかもしれない。だが、残念ながら現時点では、わたしは歴史(過去の経緯)にもそれほど強い興味はなく、いちばんの関心事は「いまを生きる人々」である。だからわたしの遺跡に対する態度は、「まあ一度は見ておくか」程度のものでしかない。そうやって、これまでにいくつもの遺跡を見てまわってきた。今回も、エローラとアジャンタの石窟群を見ながら、「やはり遺跡はこんなものか」と思った。それでも、スケール感や周囲の環境など、実際に見なければわからないことも多いから、やっぱり一度は見ておいてよかった。総括すれば、そういう感想になる。
それにしても、この町では、あまりいい思い出が残らなかった。というのも、明け方にバスでアウランガバードに着いてから、ユニスという名のタクシードライバーにつかまり、結局、宿も決めていなかったので、彼に案内してもらってホテルを決め(もちろん彼はバックマージンをもらう)、エローラとアジャンタへの移動もお願いした。広い町で宿を探すのは、結構たいへんな作業である。だから彼にお願いして、それなりに安いホテルを紹介してもらったことは、お互いにハッピーだし、それでよかった。タクシー代も、特段高いというわけではなかった。
ところが、彼のビジネス態度が気に食わなかった。詳細は省くが、とにかくエキストラコストがどうとか、予定より長い距離を走ったからどうとか、いちいち揉めなければならなかった。あげくの果てには、都合が悪くなるとダンマリを決め込む。毎度、客を不快にさせてばかり。はっきり言えば、あんまり賢くない。そして、ホテルやレストランで登場する彼のトモダチたちが、またことごとく彼と同じようにちょっと歪んだコミュケーションしか取れない。そのせいでわたしたちは、2泊目にホテルを移らざるをえなくなった。
最初のホテルでは、Wi-Fiが使えることを確認したうえでチェックインしたのに、いざ部屋に着くと使えない。すったもんだのすえ、そもそもそのホテルにはWi-Fiが設置されていないことがわかった。その後もミスコミュニケーションの連続で、最終的にホテルを移ることにした。チェックアウトの際も、24時間制だから追加代金を払えと言われ、また揉めた。あまりにも約束が違うので、それは払わずに出た。
移動したホテルでWi-Fiを使おうとすると、今度はパスワードがわからないという。あとでマネジャーが来たらわかるというので、いったん外出した。1時間して戻ってくると、ちょうどまたマネジャーが出て行ってしまったところだという。それでパスワードは聞いておいてくれたんだよな?と尋ねると、すっかり忘れていたという。あげくの果てには、使えないからしょうがない、今日は祭りだからどうしようもない、という開き直り。そうして最後は聞こえないふりをする。客の声を無視するのである。
わたしだって、Wi-Fiが使えないのは別に構わない。ただ、使えると言ったのに使えない、そういうあからさまな嘘をつくのが許せない。そのうえ言っていることが矛盾だらけなのだから、誠実さのかけらもない。どうせなら、もうちょっとまともな理屈をつけてほしいと思う。これはひとつの例にすぎないが、こんなちょっとした揉めごとが、1日に10回以上も起こるのである。もうたまらない。
同じインド人でも、もっと相手を立てながら小賢しくふるまう人のほうが、私は好きである。うまく理屈をつけて観光客から上手にお金をまきあげていくインド人は多い。それに、一度交渉が成立したら、それ以降は相手に不快な思いをさせないようにすることが多い。コミュニケーションにおいて、「無視」という行為はいちばんよくない。どんなロジックでもいいから、対話を放棄してはならないと思う。
インド人は、お決まりのように毎度いろんな理屈をつけてきて、いちいち交渉が必要になる。それはそれで骨の折れるやり取りなのだが、でも、彼らには彼らなりのロジックがあり、こちらにはこちらなりのロジックがある。それらをお互いぶつけあって、あきらめずに対話を続ける。そういうインド人の気質が、わたしは好きである。だからこそ、この町で何人ものインド人に「無視」という応酬を食らったことに、わたしは非常にガッカリした。
ドライバーのユニスは、イスラム教徒の38歳。12人もの子どもがいるという。途中で彼の家へ立ち寄ったのだが、それはレンガを積み重ねただけの小さな掘っ立て小屋、いまにも崩れそうなボロ家だった。もう少しまともな住居を想像していたわたしは、その貧相なたたずまいに面食らってしまった。イスラム教では避妊が許されていないから、次から次へと子どもができるんだと、彼はいかにもいやらしい目つきで、うれしそうに話した。おせっかいながら、もう少し相手の気持ちを考えて細やかに商売をしないと、この先、12人もの子どもを養っていくのは大変だろうと思った。
昨晩は、ディワリというヒンドゥー教の祭りで、夜中まで花火と爆竹が町じゅうに響き渡った(記事:Happy Diwali!!)。鼓膜が破けそうなほどの轟音がひっきりなしに続いた。ユニスと彼を取り巻く不愉快な仲間たちの態度に、すっかり気が滅入っていたわたしたちは、祭りに参加する気分にも到底なれず、轟音が鳴り止むのをじっと待って寝床についた。
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