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乱世の生き方(1)~敗北を受け入れた後の榎本武揚という生き方~

 2022年2月24日、ロシアがウクライナとの国境を越えて軍事侵攻を行いました。国連常任理事国による領土拡大を目的とした(※1)軍事侵攻は、第二次世界大戦終結以降に人類が築き上げてきた国際秩序を一瞬にして破壊したといわれています。
 ロシアのウクライナ侵攻の影響により、原油、天然ガスといった資源は無秩序に価格が高騰し、日本国内ではこうした資源高に円安と電力不足も加わり、経済成長政策の実現に不透明感を抱く混沌とした社会になったと考えられます。
 更に遡ることロシアのウクライナ侵攻前、パンデミックが、それまで比較的抑制されていた人々の異なる価値観・考え方を一気に表面化させたと考えられます。人々は、日々、洪水のように溢れる膨大な情報の中から自分の考えに都合の良い情報を取捨選択して自分自身の考えの裏付けとして自信を持ち、自らの考えを主張し、行動に移すようになりました。その結果、「何が正しいか分からない」という羅針盤無き社会情勢のようになってきました。
 こうした人々の価値観・考え方の多様化は感染症対策以外でもこれから色々と顕在化していくことでしょう。
 社会は混沌とした状況になり、もはやこれは十分に“乱世”といえる社会情勢になったのではないでしょうか。
 それでは我々は、こうした乱世をどう生きていくべきでしょうか。乱世を生き抜くための教科書はありません。我々人類が唯一有する武器は「歴史」です。乱世を生き抜いた人から、現代の生き方におけるヒントを学びたいと思います。
 今回は、幕臣として最後まで明治新政府に抵抗したものの、赦免後に新政府の高官として活躍した榎本武揚の数奇な人生について「乱世の生き方」の観点から考察したいと思います。
 榎本武揚については、数多くの書物(※2)が出されていますので、そのエピソード全てを記載することはせず、「乱世の生き方」に関連する話のみ記載します。

(写真)箱館戦争前の榎本武揚

 榎本武揚は、1836年(天保7年)に江戸(現在の浅草橋あたり)で生まれ、昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府が軍艦「開陽丸」を発注したことに伴いオランダへ留学しました。オランダには4年ほど滞在し、その間に洋式海軍技術、農業、工業といったテクノロジー領域に加え、国際法も学び、オランダ語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の4 ヵ国語を身につけ(※3)、1867年(慶応3年)江戸幕府最後の年に帰国しました。
 榎本はそれほど身分の高い武士ではなかったそうですが、当時としては最先端のテクノロジーと国際法を外国で学び、その目は世界を見ていたと考えられます。
 榎本が幕府瓦解後、江戸城無血開城を見届けた後に旧幕府艦隊を率いて江戸を脱走し蝦夷地へと渡ったエピソードは有名です。
 明治2年に箱館(現在の函館)で明治新政府軍と戦闘になった訳ですが、この時の戦い方として国際法に則った捕虜の扱いが明治新政府軍からも一目を置かれました。
 また遡ること箱館戦争の開戦前に、榎本は蝦夷地占領後、榎本率いる旧幕府軍を国際社会から交戦団体として認めさせることに成功しました。それは、当時最強の軍艦である開陽丸を始めとする榎本率いる旧幕府軍の海軍力が新政府の海軍力よりも優勢であったことが背景にありました。
 榎本は、「土地を奪われた幕臣が可哀そうだから」という感情論で訴えても諸外国は相手にしないことを分かっており、現実的な海軍力を背景として、一時的とはいえ交戦団体、事実上の独立国家を諸外国に認めさせたのです。
 実際、諸外国は開陽丸沈没後に明治新政府を日本の正式な政府として認め中立を放棄しており、榎本はこうした欧米諸国のシビアな考え方を理解していたといえます。

 明治新政府の中でも、特に榎本武揚のこうしたテクノクラートとしての能力、海外留学経験による語学力と国際法の知識を背景とした諸外国との交渉力を高く評価していたのが箱館戦争で敵将として戦った黒田清隆でした。
 榎本武揚は、箱館戦争の終盤で、新政府軍からの降伏勧告に対して拒否するも、敗色濃厚の現実を踏まえ、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた「海律全書」が戦火で失われるのは国家の損失と考え、これを新政府軍に贈ったのです。これに対し、新政府軍は感謝の意の書状とともに酒と肴を送ったのでした。この時、「海律全書」を受け取ったのが新政府軍陸軍参謀であった黒田清隆でした。
 黒田は、箱館戦争終結後、榎本の助命嘆願のために頭を丸めたといわれています。

(写真)榎本の助命嘆願のために頭を丸めたとされる黒田清隆

 反逆行為の首領である榎本武揚の助命というのは明治新政府としてありえないことだったといえます。箱館戦争では、あの新選組の副長・土方歳三も一緒に戦っていた訳です。新選組といえば局長の近藤勇は戊辰戦争時に捕らえられた後に斬首されています。当然のことながら榎本武揚は処刑されるものと多くの人が考えていたでしょうし、榎本自身も覚悟していたはずです。
 しかし、黒田清隆だけでなく、後に榎本を批判することになる福沢諭吉も助命活動を行い、それらが実って榎本は赦免されました。黒田もまた、次の新しい時代を見据えていたといえます。

 その後、榎本は駐露特命全権公使として、ロシアと交渉し、有名な樺太・千島交換条約を締結させたのでした。この条約が北方領土問題を考えるうえでの起点となっています。この時代に、大国ロシアを相手にこうした交渉ができるのは榎本しかいなかったと考えられます。
 その後、榎本が大臣になったのは有名ですが、テクノクラートとして後進の育成にも関わり農業学校(現在の東京農業大学)を開設しました。

 永久に続くものと考えられていた自らが仕える江戸幕府が消滅し、幕臣の意地をみせて新しい政権に抵抗しながらも敗北し、全ての地位と名誉を失った後に、自らの力を新時代の社会に貢献するという当時の武士の考え方としては多くの批判に晒される“第二の人生”を潔く受け入れたのでした。
 多くの人は榎本武揚を「二君に仕えた卑怯者」というイメージで見ておられるかもしれません。それもあってか数多くの英雄がいる幕末の英傑達の中で、榎本はあまり人気があるとはいえません。
 しかし、箱館戦争の敗北が決定的となり新政府軍に降伏する際、榎本は全責任をとって切腹をしようとしました。ところが、それに気づいた近習の大塚霍之丞に制止されたのです。大塚霍之丞はこの時、指を負傷しました。自らの指を負傷しても榎本の切腹を止めたのです。敵も味方も、「榎本を死なせてはいけない」というものがあったのだと思います。
 筆者は、榎本武揚は武人としてやるべきことはやり救われた命を社会に貢献することが全ての恩義に報いることと考えたのではないかと推測します。

 ちなみに、この榎本武揚という人物は、決して勉強ができるというタイプではなかったようです。昌平坂学問所は当時の名門ではありますが、昌平坂学問所修了時の成績は最低の丙であったそうです。
 しかし、時代に翻弄されながらも、その中で努力をし、多くの知識を学ぶとともに、知識を知識として留めることなく、実践力として活かしていったことが新時代で必要とされる人材となった要因ではないでしょうか。
 榎本武揚が実践力にこだわった(※4)のは、そうした背景があるのでしょう。
 そして、榎本武揚はテクノクラートだったのです。
 筆者は、理系の人材が文系の領域(法律や経営学など)でも知識と実践力を持てば、また営業力や交渉力のある文系人材がテクノロジーへの理解力を高めれば、乱世の時代を超越する最強人材になりえると考えています。
 その一例として、理系・文系といった区分の無かった時代を生きた榎本武揚を紹介しました。

※1:この記事を書いた2022年6月12日現在、プーチン大統領のウクライナ侵攻の真の狙いは謎であるが、ロシアが占領したウクライナ南部から東部の地帯において自国の領土として扱う占領政策が見られることから、筆者は領土割譲をウクライナ侵攻の目的の一つと解釈した(あくまでも筆者の見解)。
※2:例えば、小説・読み物として楽しむのであれば「榎本武揚―幕末・明治、二度輝いた男―」満坂太郎著(1997年・PHP文庫)がある。
※3:東京農業大学HP「建学の祖 榎本武揚先生とは」よりオランダ留学時代に学んだ領域の記載あり。
※4:東京農業大学HP「実学主義の提言」より理論と実践の両方が重要である榎本の考え方が記載されている。

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