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母の幸せな教師人生

先日、父の歩んだ教師人生を投稿しました。商社マンという誰しも一度は憧れる職業を捨て、バスケットボールに生涯を捧げた生きざまは同じ男として羨ましく思いました。

今日は同じく中学校教師として、もがき苦しみながらも、生徒への愛を貫きとおした母の生きざまを書いてみます。

小さい頃からの夢

母は地元ではちょっとした名家の一人娘として産まれ、何不自由なく育ちました。祖母も中学校教師だったので、物心ついたときから夢は教師。中高と家庭教師が付けられ、夢への道を着実に歩んでいきます。そんな時代に家庭教師というバイトが存在するんですね。。驚きました。

無事、進学校を卒業し、地元の国立の教育学部に入ります。これには祖父母も大変喜んだそうで、何を血迷ったか将来母が結婚して住むための離れを建ててしまうのです(笑)18歳の娘のためにここまでする親、バブル期にもいないでしょう。

大学生活

教育学、教育心理学など教師になるための勉強がとても楽しく充実していて、毎日授業は一番前で聞いていたようです。

皆さんの大学生活でも、授業になると一番前に座り、にこにこしながら先生の言葉に相づちを打ってる学生いませんでしたか?まさしく母がそんなタイプです。

良く言うと熱心で学生らしいのですが、回りが見えてないというか、好きなことには一直線。そんなイメージでしょうか。要領よく生きていきたい私とは真逆ですね(笑)

お見合い

大学3年の終わりくらいだったとのことですが、祖父から見合い話を持ち込まれます。何のつながりかは忘れましたが、祖父の職場関係からだったと思います。

教員採用試験に向けて、ひた走っていた母は気乗りしませんでしたが一人娘ゆえ断りきれず受けることにしました。

当日、着物を着て高級料亭の部屋に入るとそこには、あぐらをかいて不機嫌そうに座るデカイ男。

そう。親父です。二人の出会いはなんとお見合いなんです。

地味な幸薄い顔をしている母はともかく、親父は目鼻立ちがはっきりしてて背も高く、女性にはそれなりにモテたと思われるのに、お見合いをしたこと不信感を抱かざるを得ません(^-^;

大学3年生でお見合いとか70年代は普通だったんでしょうか?(笑)その後、次男の親父が婿入りすることで、二人の意思とは関係なく結婚に向けて両家は動き出していきます。

これは私も聞いたことありませんが、お互いに好きな人がいたり、交際していたりとかはなかったんですかね。どちらにせよ、破談になっていたら私はここにいないわけで、これで良かったのだと思うことにします。

卒業

総合商社から内定を得た父は商社マンになる道を選びます。母はというと教師になることしか考えていないので民間は一切受けておりません。

しかし大学生活の集大成とも言える教員採用試験になんと落ちてしまいます。バスケやる為だけに教師を目指した親父は一発で受かり、小さい頃から教師になるべく英才教育を受けてきた母は落ちる。

試験官は見抜いてたんでしょうね。母は精神的なタフさがなく、臨機応変が苦手な性格ですが、親父は商社で鍛え抜かれた精神力と威圧感あるガタイにデカイ声。そして適度に適当な性格(笑)

そんな事で母は残念ながらプータローで卒業です。

そして結婚へ…

大学卒業前になりますが、結婚式・披露宴を挙げ、二人は晴れて夫婦になります。ちなみにこの時点でまだ5回くらいしか会ってなかったそうです(笑)すごい時代ですよ本当に。

新居は母の自宅の離れです。マスオさん状態で始まった夫婦生活でしたが、商社マンは多忙ゆえ、母が専業主婦となったことは良かったのかもしれません。教師になってたら、お互いに多忙ですれ違い、離婚してた可能性もありますからね。

 ワンオペ育児

「そこに愛はあるのかい?」と江口洋介も言ってましたが、親父と母はどうだったんでしょうか。

そんな心配をよそに結婚してほどなく、妊娠が判明し、その年末には兄と姉が産まれます。双子ちゃんです。

教員採用試験を落ちて、プータローで卒業、結婚して、もう年末には母親になっている。怒涛の展開です。しかも只でさえ大変な双子という…。幸いにもマスオだったため、祖父母が育児をかなり手伝ってくれたので乗り切れたと言っていました。

親父は接待と出張の毎日で育児に関わることすらできません。完全なワンオペ育児です。精神的に弱い母ですが、母は強しとの言葉通り、愛する我が子の為に自分の時間すべてを費やしてくれました。感謝です。

育児以外の記憶がほとんどない20台半ばだったなあと母はよく言ってました。親父のこともあまり記憶に残ってないのでしょうね(笑)

再び教師の夢に歩き出す

3人目の子として私が産まれ、再び大変な育児に追われる毎日になります。

ときを同じくして親父も新たな人生を歩み始めました。この年の4月から親父が中学校教師として働き始めます。前年の採用試験に一発で合格したのです。

この時、母は正直悔しかったと言ってました。自分は好き勝手生きてるのに母はワンオペで3人の育児に追われ、教師の夢を諦めている。

本音では「なんでこの男が教員採用試験に受かって、私が落ちるのよ!」…といったところなんでしょう。

ワンオペで離婚とか考えなかったのか聞いてみたことがありますが、女の影がなかったし、経済力はあるし、それなりに男前だし、さすがにもったいないと答えが返ってきました。女性ってこういう時すごい冷静ですよね(笑)

あっという間に2年程経ち、相変わらず育児に追われる毎日でしたが、教師として輝く親父が羨ましく思ったのでしょう。

突然親父に、教員採用試験受ける宣言をします。親父も母の気迫に圧倒されたのか、受かるわけないと思ったのか理解を示した様です。

その日から夜寝かしつけた後、机に向かい、家事しながら暗記に励む生活が始まりました。

ついに合格

最初の年は勉強不足で不合格。翌年は面接で不合格。面接でダメってことは明らかに適性がないと判断されてると思うのですが、母は諦めません。

背水の陣で望んだ3年目。ついに教員採用試験に合格しました。

育児をしながら何年も勉強してまでなりたかった教師。諦めなければ夢は叶う。そんな生きざまを見ました。母の20代は幸せだったのでしょうか?本当に感謝しかありません!

教師生活

相変わらずのワンオペでしたが、祖父母の助けもあり多忙ながらも順調に教師としてのキャリアを積んでいく母。新採と次の異動先は生徒や親にも恵まれ、毎日生徒と向き合える時間もあり、とても充実していたようです。

しかし3校目に異動したとき生徒指導を担当することになり、イバラの道が始まります。この時点で6~7年?のキャリアを積んでいますが、環境に恵まれてやってこれただけで修羅場をくぐり抜けた経験をしてきたわけではありません。

3校目はまあまあ荒れていた中学校で、そんな場所で初めての生徒指導。毎日泣いてたわよと、よく言ってました。

親父は地区どころか県内最強いや最凶といわれるくらい荒れた中学校を経験しているため、母は荒れた生徒への対応をよく親父に相談していたみたいです。

親父のアドバイス「女じゃ無理。」

素晴らしいアドバイスです(笑)

シンジ君

当時、母親のいた学校を締めていたのがシンジ君。リーゼントに剃り入れて、襟足は背中の真ん中くらいまである昭和のヤンキーです(笑)私の一学年上で、中学は違いましたが、たまに遊んだりしていました。

稀代のワルという感じではなく、学校抜け出して補導されたことはあるかと思いますが、犯罪をするようなタイプではなかったです。

シンジ君が中3のとき、母親が担任になります。授業を抜け出して他の教室へ見回りに行ったり、勝手に帰宅したり、昼間からゲーセン行ったりしていたシンジ君。その度に担任として連れ戻したり、頭下げに行ったり、家庭訪問したり大変な思いをしました。

授業抜け出したりしたら駄目。みんなに迷惑かけては駄目。せめて学校内にいてほしい。

教科書のような指導しかできない母親にシンジ君が心を開く訳がありません。

「この先生は本気で自分に向き合おうとしている。」

伝わらない限り、不良生徒は心を開かないということを、まだ母は分からなかったと言っていました。

以前も書きましたが、当時中2の私は少年院に入っている時期です。

不良生徒が少年院では規律ある行動と返事をしている。その変化に驚いたのか、面会の時に、何でこんなに荒れた生徒が変われるのかを法務教官に聞いた母親。

「信頼関係です。本気で生徒のこと考えてますか?その子がいなければ楽なのにと思っているでしょう。本気で一緒に悩んで、一緒に解決していかなくてはダメ。あなたにその技量がないなら教師をやるべきではない。」

言われたとき、母は心を見透かされたようで何も言えなかったよと後に聞きました。

何のために教師になったのか?教師のやりがい?安定した職業だから?

自問自答を繰り返しするなか、初めて中1~中3を持ち上がりで担任し無事卒業させたときの喜びを思い出します。

ブカブカの制服を着たかわいい子達が少しずつ成長し、部活や行事で互いに助け合うことを学び卒業していく。思春期の心と体が大きく成長していく3年間に関われる教師という仕事の魅力に気づいたのです。

変わっていく母

母はその日から変わっていきます。

これは大人になったシンジ君から聞いたのですが、ある時から目を見て本気とわかるような気迫で注意されたり、手をつかまれて引っ張って学校に連れ戻されたこともあったようです。恥かしかったけど、少し嬉しい気持ちもあったと。

「うちの子はね。今、少年院に入っているのよ。駄目な親なの。先生ももがき苦しんでるの。でもここであなたを見捨てたら本当に駄目な教師になってしまう。絶対あなたを見捨てないから、みんなと一緒に卒業しよう。」

涙目の母にシンジ君は何も言えなかったそうです。

シンジ君は工業高校に合格し、みんなと卒業していきました。母のことを生涯の恩師と慕い、今でも実家に年賀状が届いています。

現在はいいおっさんになり、家も建てて真面目に公務員やってます(笑)まさしくバレンタイン監督。

「シンジ」ラレナーイ!…

生徒指導一筋

その後、母は定年まで現場主義を貫き、たくさんの生徒を見送りました。同時に生徒指導一筋の泣き虫先生として、親父に負けないくらいたくさんの生徒を更生させていきました。

そんなグレイトティーチャーな母。

30年超の教師生活を無事終えた翌年、父の後を追うように天国へ旅立っていきました。

母さんもまた幸せな教師人生だったと思います。

「生まれ変わってもまたお父さんと一緒になるわ。あの人は私がいないと何もできないもの。」

母の遺影からそんな言葉が聞こえてきそうです(^_^)

最後までご覧いただき、ありがとうございました\(^-^)/

























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