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第一話 東京2

かつて僕が信仰という言葉にも近い感覚で大切にしていた信条のようなもの。
その『ある物語』の一節にはこうあります。

「天職に巡り合った君は、朝を迎えるのが待ち遠しい気持ちで寝付く」
「そして朝起きたら、感謝と喜びを持って一日の仕事に取り掛かるのだ」

『ある物語』が単に「物語」であって真実では無いことに気づいた今ですら、寝起きの僕は、すっかり潜在意識に浸透したこの言葉を、呪文のように反芻しているのかもしれません。
それは僕が長いこと自分に課してきた習慣だったのです。
そして、その「天職」を未だ手にできていない自分を捕らえて惨めに思っているようなのです。

僕はこの惨めさを、周囲の人も心に秘めているのだと、当たり前のように考えて生きてきました。
ところが、そうでは無さそうだということを最近になってようやく知ったのです。
それは僕がモノローグ365というシリーズで東京版の制作を進めていた時のことです。

「どうしてこういうのを作っているの?」

取材の合間に、必ずといっていいほど取材対象の方に聞かれました。
こういった時に、僕はあらかじめ用意しておいた言葉で一通りの説明をします。
すると感心したような、でも納得しきれないような、微妙な顔と反応をする人が多いのです。
このようなことは、海外で取材の練習をしている時はありませんでした。
でも、考えてみれば、それは単に言葉による意思疎通の問題があったからなのでしょう。

そして編集を経て、出来上がった記事を周囲の人に見せると、多くの場合、彼らはまたなんとなく言葉を濁すのでした。
それでも、親切な人はこう言ったりします。

「もっと分かりやすい説明が必要じゃないかな」

「なぜモノローグ365を作るかなんて、ページを見ればわかる」と自然に考えていた僕は、このように言われるといつも軽いショックを受けたのです。
それは大袈裟に言えば、サン=テグジュペリの『星の王子さま』が、象を丸呑みした蛇の絵を、大人に帽子と間違われた時に抱いた違和感に近いものだったかもしれません。

でも、実は制作を開始した直後から、僕もその予感を薄々ながら認めていました。
僕が恐れていたのは、「これではほとんどの人に伝わらないかもしれない」という予感と向き合うことで、制作意欲を自ら挫く可能性でした。冷静に練習作品を振り返ることをためらっていたのです。

「わかる奴にだけわかればいいのだ」

いずれ自分と同じ種の惨めさで苦しむ人の目に留まれば理解されるのだし、そもそも今は練習の時期なのだ。人に見せるほどのものは作れないし、見せて回るなどしなくて良いのだ。
そう言い聞かせて、そのまましばらく取材と制作を進めていたのですが、取材を進める以上、理由を聞かれ、説明する度に微妙な顔と反応をさせてしまう。
それに、このままだと、どうもその「わかる奴」が一向に現れないという別の予感もしてきたのでした。

今、365人への取材を敢行するにあたって、すでに143人の記事を作り終えました。
僕にとって取材は旅であり、旅はよく人生に例えられることがありますが、もしこの制作にも幼少期、青年期、壮年期、老齢期があるとすれば、今は青年期に当たるのだと思っています。というのは、143名への取材、実際は記事にしていない取材も含めて150名ほどですが、この期間、「なぜ制作するのか」に対して僕自身、大した理由は要らず、ただ「作ろう」という衝動に任せて進めていれば良かったからです。

ですが、最近になって、素朴な質問や軽いショックを幾度か経るうちに、それらに対応する、自分でも腑に落ちる答えが得られたのです。
その答えは、改めて取材と制作において表現を試みるつもりなのですが、ここではそもそもどうして僕が制作と向き合うようになったのかを、順を追って話していきたいと思います。

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