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第二話 インド4

僕が足を踏み入れたジョージ・タウンは、まさに仕事の街でした。
金物屋、花屋、生地屋、紙屋、建築資材や便器、名刺やパソコンを専門に扱う店、大量買いのできるスーパーなど、なんでもあります。商店がどこまでもずらりと並ぶこの一帯は、仕事をするために必要なものはおよそ揃っていると言った様相です。辺りに観光客はほとんど歩いておらず、インド人がインド人のために商っている店やオフィスばかりでした。

ですが、みんなが穏やかに営む平和な街といった雰囲気はどこにもありません。碁盤の目に走った狭い路地を、荷物を過剰に積んだオートバイ、トゥクトゥク、台車、そして牛に引かせた荷車が我先にと行き交い、砂埃を立てています。道端にはあちこちにゴミが散らばり、物乞いをする者も少なくありません。

人々はそれらを巧みにかわしながら各々の目的地へ向かうのです。グアバを満載した重そうな荷台を、細い体を傾けて懸命に引く老人は、靴もサンダルも履いていませんでした。そして、そこら中で怒鳴り声やけたたましいクラクションが響き渡っています。賑やかさを通り越したその雑踏を、汗を落として歩きながら、僕は興奮していました。

僕はこんな街に来たかったのです。こんなうるさい街でやりたかったのです。インド特有のこの猥雑さには隙があり、僕が入り込む余地がありそうな気がしていたのでした。

「この街で取材ができなかったら他の街で何もできるはずがない」

そう心の中で何度も呟いたのは、自分の弱りかけた心を引き締めるつもりが無くもなかったのです。しかし、それでもやはり、偶然にしてこの場所に流れ着いたのは幸運に思えました。そしてそれから数時間、ある宿の前に出るまで、僕は荷物を抱えたまま街をじっくりと見て回ったのでした。

『アルマッシン ホテル アンド リゾート』

この響きだけなら、結局は海側のちょっとしたところに部屋を取ったのだろうと思われても仕方ありません。ところが、何が悲しくて『リゾート』と付けたのか、その外観には似ても似つかぬ、商人が寝るためだけに立ち寄るような、小さな宿でした。もちろん、プールもなければレストランもありません。

僕がここを拠点としたのは、単に立地がよく、部屋が清潔そうに見えたこと、そしてエアコンから水が漏れないことを確認できたからでした。

「早く取材に取り掛かりたい」とはやる気持ちを抑えながら、シャワーと洗濯をセットで済ませます。ところが、外の喧騒から離れ、それまでで一番マシな部屋にたどり着いたという安心感で気が緩んだのか、興奮で紛れていたらしい頭痛と悪寒がぶり返してきたのです。

浴室から出ると、日本から持ってきていた薬を飲み、ベッドで横になりました。涼しい部屋で、シワのない真っ白なシーツに包まることが、なんだか贅沢に感じられます。そう感じたのも束の間、意識は朦朧となり、僕はあっという間に眠りに落ちてしまったのでした。

どれくらい眠ったのでしょうか。目が覚め、体を起こすと、鈍い頭痛はまだ引いていませんでした。料金を渋ったせいで窓のない部屋でしたが、時計は20時を少し過ぎたところです。外はすっかり暗くなっているはずでした。「それでも食事は摂らないと」と思い、部屋を出てフロントの男性に手頃な食堂を聞いてみることにします。浅黒く丸い顔つきの、鼻の下にヒゲを伸ばした彼は、なんとなく難しい表情をしていました。

でも、黒縁の眼鏡をかけ、チェック柄のシャツをスラックスの中にきちんと閉まった清潔な出立ちの彼は、意外にも大学生で、また、人懐っこかったのです。

「ビジネスで来たの?」

彼の口から滑らかな英語が出てきました。目的を伝えると、偶然にも大学で映画を専攻しているのだという彼は、前もって用意していたインタビュー用の質問リストの翻訳を頼まれてくれると言うのです。チェンナイには『コリウッド』といって、南インドでは随一の、インド映画を撮影する街があるということも熱心に話してくれました。

「要はドキュメントを撮るんでしょ? 」
「俺も撮ってるんだ。協力するよ」

糸口を掴めずに一人焦り始めていた僕は、この小さな前進に気を良くして、調子に乗って彼に取材の練習までお願いしてみました。するとこれもあっさり快諾してくれるのでした。

その夜、食事を済ませて戻ってきた僕は、フロントの真前にあるソファに座ってPCを広げました。そして、打ったものを彼に見せ、添削をしてもらっては修正をするという方法で、タブレットに10ほどの簡単なインド語の質問リストを完成させたのです。

礼を言って部屋に戻ると、どっと疲れを感じ、そのままベッドにぐったりと横たわりました。目を瞑ると、長かった一日の出来事が思い出されてきます。この日の朝、僕は茶店とも言えないような茶店で、スプライトの瓶を傾けていたのです。それから宿に戻って、鉄道に乗って、街を歩いて、洗濯をして、昼寝をして、インドの学生とおしゃべりに夢中になって、パソコンを叩いて。そして、これで明日から突撃開始だと思うと、ウトウトしかけていた意識は、また変に覚醒してしまいます。

結局、その晩はひどく疲れているはずでしたが、昼寝のせいか、体調不良のせいか、室内干しのせいか、暑かったり寒かったりというのが続いて、なかなか寝付けませんでした。それでも無理に目を閉じて横になっていると、街で働くインドの人々に、ぎこちなくインタビューのお願いをして回る自分の様子が、何度も何度も脳裏に浮かぶのでした。

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