人口40人でも20代が7人の島|47キャラバン#5@佐賀
再び、武雄へ
今回の舞台は、佐賀県武雄市。一昨年に佐賀県で開催した前回の47キャラバンも武雄市だった。なぜ、また武雄なのか。それは、この男がいるからである。Twitterでパクチー王子を名乗る江口農園の江口竜左、32歳。
どうですか、このキャラの濃さ。前回のキャラバンで農園も案内してもらった際に、「衰退するこの地域をなんとか自分が守っていかないといけない」と話す姿が印象的だった。あの後、昨年の武雄を襲った集中豪雨、今年に入ってからのコロナ禍、そして先月またしても集中豪雨に見舞われ、トリプルパンチを喰らっていた。この間もSNSではやりとりしていたが、やはり気になり、もう一度現場に行ってみたいと思い、今回の会場も武雄にした。
前日のキャラバン会場の長崎から移動し、武雄入り。再会場所は、2年前も食べに行った「井出ちゃんぽん」。コロナ禍ということもありすんなり入れたが、それでも満席なところはさすが武雄の看板店。この店の大盛りは尋常じゃない。次も大盛りをと前回約束していたけれど、彼は並盛と大盛りの間のサイズを、僕は並盛を注文。お互いに1年8ヵ月分、歳をとった。この日は猛暑。汗をぬぐいつつ、ちゃんぽんをすすりながら、近況を語り合った。
地域の未来を背負う覚悟
江口さんがパクチーを始めたきっかけは、改革派で鳴らした前武雄市長の樋渡啓祐さんから勧められたことだった。苗を車の中に入れていたら、翌日のデートで「臭い!」と言われたことがきっかけで、これはおもしろい食材だと感じたという。市の後押しもあり、パクチーの売り先の飲食店は順調に増えていった。
江口農園がある集落には、100戸近くの農家がいる。32歳の江口くんより年上で、63歳の父より年下の農家は他にいないので、やがて自分が地域を背負っていくのだとの自覚がある。米・麦・大豆が主な生産物である自分の集落で、パクチーのような葉物を高付加価値をつけて売っている農家はまだ他にはいない。このモデルが確立できれば、他の集落の希望にもなると考え、青森県弘前市の農家に、パクチー作りのノウハウを提供している。
また、この集落の担い手不足を埋めるのは、アジアの意欲ある外国人でもいいかなと思っている。例えば、タイ人を雇用するなら、日本人が一方的に教えるというスタンスではなく、自分たちもタイ語を教えてもらい、双方向で学び合う関係になりたい。「江口農園の社員がみんなタイ語を話せたらおもしろいじゃないですか。それをネタにYouTubeをやったっていい」と語る江口くんのもうひとつの夢は、アジアの貧困国でも農業をやることだ。「純粋にお腹を空かした人たちがいる国で、つまり農業が本当に求められているところでやってみたい。飽食の日本人の胃袋はすでに十分に満たされているので、農家は消費者から選ばれるためにマーケティングやブランディングやってるわけでしょ」。
パクチー生産のビニールハウスは山間部にあり、周囲がぐるりと電気柵で囲まれている。2年前に訪問したときも、イノシシなどの獣害に頭を悩ませていたが、その後、「獣の勢いが増している。人間の押し返す力がなくなってきている」と感じている。人間が暮らすゾーンと、野生動物が暮らすゾーンの間にはこれまで里山があり、そこが緩衝地帯となっていた。ここから先に入ってきたら痛い目に合わせるぞというアラートが人間側から常に発せられていたのが、里山が廃れ、そこに暮らす人々の姿がなくなるにつれ、野生動物が人間の世界に押し入ってきているのである。地方の中堅都市にこれまで目撃されたことがない熊やイノシシが頻出して騒ぎになっている背景には、こうした里山や山村の衰退があることを、市街地に暮らす人間も考えなければならない。すべてはつながっているのである。
あきらめたら負け
武雄文化会館で開催した「REIWA47キャラバン」。農家、漁師の他、県庁職員や市議会議員など、30名近くにご参加いただいた。冒頭、こう切り出した。「一言で国を滅ぼす言葉は『どうにかなろう』の一言なり。幕府が滅亡したるはこの一言なり」。これは幕末、滅びゆく江戸幕府を立て直そうと活躍した名臣、小栗上野介の言葉である。300年安泰だった江戸幕府も、「どうにかなるだろう」という他人事のような当事者意識を欠いた人ばかりになってしまった結果、最後はあっさりと倒れてしまった。では、そうならないようにするにはどうすればよいか。「どうにかできないのは能力の限界ではなく執念の欠如である」。これは、どの政治家も成し得なかった国鉄の民営化を成し遂げた民間人、元経団連会長の故・土光敏夫氏の言葉である。ようするに、あきらめたら負けだと。
高齢化著しい衰退の一途にある農業も漁業も、農村も漁村も、あきらめてしまいたくなるような厳しい環境下に置かれている。そこに自然災害が襲いかかる。それでも意思ある限り、その「すがたかたち」を示し続けることこそが、地域の、日本の行く末にとって大事なことだと僕は思う。情緒的に過ぎると笑うだろうか。しかし今、この情緒、心情こそが、この国に決定的に欠落していることのように思えてならない。理性に基づく方法論や技術論は山のようにあふれかえっている。それは行きつくところ、機械の世界である。今、私たちの社会では、人間とは何かが問われているのである。
そんな話を2時間、こころのままに話してきた。
人口40人でも20代が7人の島
翌朝、武雄キャラバンにも参加してくれた漁師の宋秀明くん(25)が暮らす、佐賀県の玄界灘に浮かぶ人口40人の離島「松島」へ行くことに。漁師と言ったが、正確に言うと、海に潜って漁をするのが素潜り漁が中心なので、彼らは自分たちのことを「海士(あま)」と呼んでいる。
40年前に130人が暮らしていた松島だが、今では40人に縮小してしまい、20世帯あまりが暮らしている。宋くんは中学時代、隣の島にある中学校へと、毎日スクールボートで通った。片道5分。同級生は5人だった。学校にはバトミントン部しかなく、全員強制入部させられた。中学卒業後は佐賀市内の工業高校で寮生活をし、その後3年間唐津市内でサラリーマンをしていたが、「街より島の暮らしの方がいい」と故郷の海に戻った。
人口40人の小さな島「松島」だが、20代の若者が7人もいるというから驚きだ。しかもすべて島出身。島が好きで、父親の跡を継ぎ、海士や釣船をやっているのだという。他に小学生がひとり、幼稚園児がひとりいる。高齢化が急速に進む地方の島で、全人口に占める若者の比率・若者の定着率を考えると、これは異例の島なのである。なぜ、この島には若者が残るのか。なぜ、この島には若者が帰ってくるのか。
その秘密を探りに、呼子港から、いざ玄界灘へ。
島へ向かいながら、スマホでSlack、Messengerを確認したり返信したり、Twitterで発信したり、一応社長なので、仕事中。
15分後、松島に到着!
むむっ。屋根のてっぺんに十字架の教会が見える。
中に入ってみた。江戸時代、ここは隠れキリシタンが住んでいた島で、こうして船の錨に模した十字架でカモフラージュしていたのだという。今でも毎週日曜日になると、神父さんがミサをあげに定期船で島までやってくる。漁師たちも休漁となる。島民は全員クリスチャン。宗くんの祖父は人生で三度バチカンに礼拝に行ったらしい。
島のメインストリートだという急坂。港の目の前から始まり、両側に家々が点在している。ひたすら上がる。息が上がる。
海士のかたわら、宋くんは養蜂もやっている。5万匹のミツバチを飼い、ハチミツをつくっている。ミツバチが入っている箱の土台は、廃校になった小学校から持ち出してきた跳び箱。子どものころ、宋くん自身が実際に飛んでいた跳び箱だ。
さらに塩づくりまでやっていた。海底から50センチのところまで船からホースを下ろし、海底から湧き出る水を100リットル汲んできて、釜で煮る。山から間伐してきた木材を燃料とすることで、荒れた山の整備もできるから一石二鳥だ。8時間、釜の中の海水をぐるぐるとかき混ぜ続け、最終的に4キロの塩ができる。普通の海水だと、体によいマグネシウムやナトリウムから成る「にがり」は苦くてしょっぱいので抜かなければならない。しかし海底湧水の「にがり」だと、それがないので抜くなくても済むのだという。
野菜もつくっている。海から持ってきた海藻肥料のみで育てている。手つかずで藪になっていたところをチェーンソーと鍬で開墾した。「おばあちゃんたちがずっとつないできた赤ジャガイモの種を自分も次につないでいきたい」。山を整備しながら塩をつくり、土を耕しながら野菜を育て、海から必要な分だけウニやアワビをとってくることは、山と海の大きな自然の循環を回復させながら利用もする持続可能な一次産業の形である。
島には、宿泊施設がない。そこで、宋くんはグランピングをつくる準備をしている。その場所に連れていってもらった。海が一望できる高台の崖っぷちで見晴らしがいい。藪に覆われていたこの場所を、島の若者たちと一緒に開墾し始めた。「何してんだ?」と通りがかりの親世代も加わり、みんなで整備した。さらにクラウドファンディングで資金も集めた。来年には着工する予定だという。
それなりの広さなのだが、一日一組の限定にするという。もっとお客さんを入れた方が稼げるのに、なぜ一日一組限定なのか?実は、宋くんの兄が島でレストランをやっているのだが、ここも一日一組限定だ。なんと、ランチでおひとり様14,500円!これに定期船で往復する分の運賃も加わる。そんな高いランチを食べにわざわざこんな僻地まで来るお客さんなんかいるんだろうかと思いきや、このコロナ禍でも年内は予約ですでに埋まっているという。特別なことはしていない。弟や父や島の海士たちが目の前の海からとってきた食材を料理して出すだけ。
改めて、なぜ、一日一組限定なのか。理由は、島に来てくれた人を島のみんなでもてなし、丁寧に人間関係を育みたいからだという。そして、また島に来てもらいたい。いや、島に来るんじゃなくて、僕たちに会いに来てもらいたい。第二のふるさとのような場所だと思ってもらえるようになりたい。
グランピングに来てくれたお客さんには、素潜り漁も体験してもらいたいと夢は膨らむ。自分で採ってきたサザエやアワビをこの場所でBBQで食べてもらいたい。そうなれば、素潜り漁を教えるという仕事、役割が、島にひとつ増えることになる。「ということで高橋さんにはこれから実験台になってもらいます」と、見学する予定だった素潜り漁を急遽やることになった。
ちなみに、松島の頂上、こんな感じ。両手上げてるのが、僕。ドローン操縦してるのが、宋くん。松島はくびれがあり、ひょうたんのような形をしている。
ピカピカの新しいウエットスーツを渡される。泳ぎは決して得意な方ではないんだけど、大丈夫か、オレ?
やべぇ、ちょっとビビる。「船から漁場まで30メートルくらい泳ぎ、そこから3メートルくらい潜ると、岩場にウニがいるから、それをとるだけです」と伝えられる。そ、それ、初めての人に対してちょっと乱暴な説明じゃね?ちゃんと潜るコツとかそういうの教えてよと一抹の不安を感じつつも、
いざ、ぶっつけ本番の実践。25歳の若者漁師 VS 46歳のおじさん社長の赤ウニ素潜り漁10分一本勝負!
結果発表。
ひとつも採れなかった僕をあざ笑うかのように、10分間で20個以上、赤ウニを軽々と採った宋くんは、慰めるようにウニを食べさせてくれたのだった。
ところ変わって、海が見える一日一組限定ランチが楽しめるレストラン(宋くんの実家の台所)。今日予約の家族連れのお客さんがちょうど帰ったところで、余っている食材でランチをつくってくれることに。なんという幸運。
ちなみに、目の前の海は天然の冷蔵庫。こうして料理の前に食材を調達してくる。
一品目。鯛のアクアパッツァ。亀の手、ムール貝も入っている。なんと贅沢なアクアパッツァ。
二品目。高級魚クエとヤリイカとカラスミのスープたっぷりパスタ。
締めは、さっき採ってきた赤ウニ丼。どれも筆舌に尽くしがたい味である。
食器は、海風にあてて乾かすのが宋家流。
宋くんのお父さんがいたので、島の謎に迫った。「息子さんは、この島がとにかく居心地がいいと言う。他の若者もそう。たいていは窮屈で居心地が悪くて田舎から若者が出ていくものですが、この島にはなぜ、若者が残るんでしょうか?」。お父さんの答えはシンプルだった。「この島には、若者が新しく何かしようとするとき、それをサポートする文化が昔からある。それは、若者を今、大事にしないと、将来、自分が大事にされないですから。今の自分の親世代の80代も、自分が20歳で島に返ってきたとき、同じようによくしてくれた。だから、今度は自分たちが今、親世代を大事にしている。それだけのこと」。
コンビニも自動販売機も交番も信号機もないこの島には当然、介護施設もない。大好きなこの島で最後まで暮らし続けるためには、最後は島で子どもたちに面倒を見てもらうしかない。もし嫌だと言われれば、本土の介護施設に行く他なくなる。だから若者たちを応援する。今の日本社会では考えられないことだが、とても自然なことのように思えた。人間が生きるとは、こういうことだったんじゃないかと。
お父さんに「今度は泊まりにおいでよ。一杯やろう」と言われ、後ろ髪ひかれながら、帰路に。適当な時間の定期便がないので、またしても宋くんに船で送ってもらった。
なぜ、島で生きることを選んだのか。改めて聞いてみた。彼の答えもシンプルだった。ここでの暮らしをまだ見ぬ子どもたちに受け継ぎたい。そのための準備をしているのだ。過去には乱獲もあり、海がだいぶ貧しくなってしまった。海が豊かじゃなければ島での生活はできない。「海を休ませるのが一番の薬だって、お父さんがいつも言っている。採り尽くすと、種が残らない。だから、海の資源はどうしても守らないといけない。子どもたちの代が食べていけるように。だから、海で採るのは少しにして、その分、ハチミツや塩、野菜、グランピングで稼いでいこうと思う」。
宋秀明、25歳。日本にもまだこんな若者がいることを希望に思う。そして多くの人のこんな若者がいることを知ってもらいたい。そして、応援してもらいたい。
今年はサザエの値段が暴落してるって嘆いていたから、よかったら買ってあげてくださいね。
さて、これから今夜のキャラバン会場の博多に移動。
各種リンク
▼「REIWA47キャラバン」について
▼これまでのキャラバンの様子はこちら
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