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【建築】昭和塾堂から近代建築の保存を考えてみる
自宅近くに城山八幡宮がある。
戦国時代は織田信長の父・信英の居城であった末森城だったが、信英から引き継いだ信行(信長の弟)が信長に謀殺された後は廃城となった。しかし信行時代に城内に建立された白山神社が廃城後も信仰され、明治になると八幡宮に合祀されて今に至っている。
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さすがに戦国時代の建物はないが、空堀などの遺構はよく残っている。
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そんな遺構の一画、二の丸跡には一風変わった建物がある。
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昭和塾堂
青年団の教育・研修施設として愛知県により1928年に建設されたものだ。
青年団とは各地域の20〜30歳代の男女により組織された社会教育系の団体で、明治末期に全国で創立された。
1925年には全国組織である大日本連合青年団が結成され、その発団式が名古屋で開催されたが、それがきっかけとなりこの地に昭和塾堂がつくられた。
「昭和塾堂」と命名したのは当時の愛知県知事 柴田善三郎である。
この建築、様式的には昭和初期に流行した和洋折衷の帝冠様式に分類される(諸説あり)。
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屋根の先端は反り、
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鴟尾もあるので、寺院建築的な要素も見られる。
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建物をよく見ると、右側は柱を露出させた真壁だが、左側は柱を隠した大壁となっている。一つの建物に2つの異なる仕上げが混在する不思議な建築だ。
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正面に立つと目に入るのはシンボルでもある八角の塔。
塔頂部には五重塔の相輪のようなものが見える。
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その1階に玄関。
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車寄せには近代建築らしいタイルが使われている。
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玄関の土間はモザイクタイル。
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正面は受付。もちろん今は使われていない。
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建物としては、塔を中心として三方向に本館が伸びた構成になっている。つまり上から見ると「人」型を描いていることが分かる。
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右手に進むと、昔懐かしき雰囲気の廊下の先に2つの教室がある。
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教室の規模は50人程だ。今とあまり変わらないかな?
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黒板を支える装飾。
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もう1室は教室兼会議室。
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梁と柱の接合部。オリジナルのデザインなのかは不明。
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かつての照明の跡か?
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玄関まで戻り、今度は反対側の廊下へ。
廊下は板張りなので歩くとミシッと鳴るが、それがまた良き。
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突き当たりに食堂がある。
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天井の装飾は教室に比べて少し凝っている。
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食堂に面した炊事場。炊事場には直接外に出られるドアがあり、ここまでの動線を通らずとも食料を運び入れることが出来る。
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配膳台下の装飾にも注目。
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1階には600人収容の講堂もある。
教育施設ということもあるだろうが、シンプルで控えめなデザインだ。
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プロセニアム・アーチの装飾。
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雨漏りを受けるバケツが目立ってしまっているね w
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さて次は2階へ。
こちらも近代建築らしい重厚な手すりと板張りの踏み面。
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2階には2つの寝室と貴賓室などがある。
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左右に寝室。
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教育施設とはいえ、少人数でのユニット化や個室化が進む現在ではこんな大きな寝室が作られることはまずない。当時の集団生活が目に浮かぶ。
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貴賓室。
天井は緩やかな弧を描く。
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床はさりげなく寄木のヘリンボーン。
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休憩室。
他の部屋もそうだが、家具が何も無いとせっかくの部屋も殺風景だなあ。
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絶妙なカーブの手すりを伝いながら塔の3階へ。
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3階は娯楽室となっている。
当時どんな娯楽が流行っていたのだろう? 卓球? ビリヤード? そんなことを想像してみるのも面白い。
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それではいよいよ最上階へ。
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おお!
ここは静坐室または神殿と呼ばれている。まるでカトリック教会のドームのようだが、自然光で満たされてとても明るい。1階や2階はやや薄暗い印象があるので、それ故この空間は際立っている。
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仏教建築的な要素を持つこの建築の中で、ここだけ異質だ。
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他の場所もそうだが、この建築は柱や天井の装飾は凝っている。
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静坐室からバルコニーに出られる。高台にあるため、周辺に多くのマンションが出来た現在でも眺めは良い。(近所に住む私には目を瞑っても歩けるエリアだ)
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最後は地下室へ。
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実はこの建築の白眉は地下にある。
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地下には浴室や洗面所、医務室、物置があるが、その床にはカラフルな割れたタイルが敷き詰められていた。
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まるで白黒から総天然色の世界に来たようだ。
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ここは下足置場でもあった。なので汚れやキズに強いタイルが使われたのだと思われるが、何故こんなカラフルなタイルが使われたのかは謎のままだ。
この昭和塾堂、設計は愛知県営繕課である。その中には黒川紀章の父である黒川巳喜も参加していた。
また顧問として建築家・佐野利器も関わっている。佐野利器は名古屋市役所(設計は平林金吾、名古屋市建築課)の設計公募においては審査員を、愛知県庁舎(設計は愛知県営繕課)では設計顧問を務めている。
したがって1933年竣工の名古屋市役所や、
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1938年竣工の愛知県庁舎、
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そして1928年竣工の昭和塾堂。
これらの3つの建物にどこか似た雰囲気があるのは偶然ではない。
冒頭にも書いたように、戦前の昭和塾堂は愛知県の青年向けの社会教育の施設として使われていた。ここで研修を受けた受講生は16万人にも及び、全国からの視察も相次いだ。
戦時中は軍に接収されたが、戦後は名古屋大学医学部、県教育文化研究所、県職員研修所、千種区役所仮庁舎、愛知学院大学の研究棟等に利用された。
現在は愛知県から払下げを受けた城山八幡宮が管理している。
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ということで歴史の観点からも素晴らしい建築であることは間違いないが、この建築は今後どうなるのだろう?
現在は空き家になっており、何にも使われていない。一般向けには年に数回イベントで公開されるだけだ。(今回そのイベントに参加したので内部も見学できた)
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過去には取り壊しも検討されたことがあるようだが、城山八幡宮もこの建物の重要性は理解しており、今のところ具体的な取り壊しの動きはない。
しかしこのまま放置しておいて良いのか?
もうすぐ築100年。老朽化によって崩れたりしないのか?
それを防ぐためには何が必要なのか?
まずはお金だ。次も金だ。その次も金だ。
そう、基本的にお金が必要なのだが、今回それはさておき(それが最も解決困難な問題ではあるのだけど)、少し別の視点から考えてみよう。
もしこの建物を再生することが出来たとして、どんな用途が適しているか?
学校? 記念館? 市民が自由に使える文化施設?
その場合、特に一般向けの用途であればアクセスは重要だ。
だが現状は必ずしも良好とはいえない。地下鉄の駅から歩くと10分ほどかかるし、最後は急な上り坂がある。
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駐車場もスペースはあるが、充分な台数を停められるほどではない。
建物的には鉄筋コンクリート造であるが、耐震基準の問題はあると思われる。
内装も、特に天井などはボロボロだ。
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雨漏りもある。
この大きな建物では、その原因を特定するだけでも容易ではない。
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日常的に利用するとすれば、電気・水道・トイレなどの設備は全てやりかえなければならない。
冷房・暖房等の空調設備も欠かせない。
またサッシ廻りの断熱は無いに等しい。エネルギー効率には目をつぶるか、何らかの技術を導入するか…
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いずれにしても修繕するとしたら、かなりのコストがかかる。とても一つの組織やクラウドファンディングで賄える金額ではない。
やはり現実的に考えると色々難しいなあ。
まずは「何に使えるか?」というそもそもの目的が決まらないとね。
そんな課題をかかえながらも昭和塾堂は今日も建ち続けているのであった。
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余談だが母校の講堂(1931年)の設計は、昭和塾堂の設計チーム(愛知県営繕課)の一員であった酒井勝である。昭和塾堂の玄関のモザイクタイルを見た時、講堂の玄関のモザイクタイルを思い出した。
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