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無宗教だった俺がクリスチャンになるまで6(最終回)

written by wattle🌼

今日は、友人の死と、教会のミサへ行った話です。

■ 友人の死

俺は26歳頃、大学時代の友達で、仲良くて、一緒にゼミで勉強をしていたやつが、ちょっと連絡をしなかったうちに、進行の早いガンのため、亡くなった。
ガンにかかったことも入院したことも何も知らなかくて、ある日突然、亡くなったという報せが友達伝いにLINEで入ってきた。

俺はその時、新婚ほやほやで妻のお腹には赤ちゃんもいて、超ハッピーな気分で日々過ごしていた。そんな中でのこの友人の訃報は、まさに青天の霹靂だった。

信じられない。事実を受け入れられなくて気が動転する感覚を、人生で初めて経験した。

友人の葬式はそれからすぐにあった。初夏の青空が気持ちいい、天気の良い日だった。電車を降りて、葬式場へ向かって歩いて行く。青空の下、黒の礼服と革靴でてくてく歩いていると、一層訳が分からない気持ちになった。

友人の葬式は、キリスト教の葬儀だった。キリスト教のお葬式というものに初めて参加した。
時期的に友人の結婚式ラッシュで、神父が結婚式で話しているのは何回も見てきた。けど、そうか、当たり前といえば当たり前だけど、神父は結婚式だけじゃなくてお葬式、人の死の場面にも立ち会うもんなんだな、なんて思った。

じっと遺影を見ていて思った。ああ、おまえクリスチャンだったのかよ。全然そんなこと話してくれなかったじゃないか。そういうことなら、俺の話聞いてほしかったよ。まぁでも、家がキリスト教ってだけで本人は信心深いわけじゃないってこともあるか。でもそれでも話してみたかったなー。。ってゆーか、おまえとはもう、会えないのかよ。。。最後に会ったのいつだったかな。またろくなことも話さずにテキトーにバイバイしちまってたよ絶対。。。

しんじらんねー。。。なんでなんだ。。。そんなことを考えながら、ひたすら泣いていた。

■ 人生初、教会のミサへ行く

さて、wattle28歳になりました。

友人の死からは一年半くらいたち、第一子も無事に産まれてきてくれた。新しく始めた仕事にも慣れてきた。

ちょうどこの頃、自分が本当にやりたいことってなんだろうかとか考えていて、自分の場合は仕事とかじゃなさそうだなって感じていたところだった。

俺がよく妻に言うのは、「人生一回だからやりたいことがあったら色々やってみな」。人には偉そうにいうけれど、さて、自分に同じ言葉をかけてやるのは意外と難しい。。。けれど、特に友達の死の受け入れ方も未だ分かってなかったし、環境も落ち着いてきたところだし、ここいらで本格的に一回「クリスチャン」になってみようかなと思った。

とはいえまだ妻に言うのは早いな…様子見の段階だし…ということで、妻が外出する休日を見計らって、俺はベビーカーに赤子を乗せ、ググって見つけた最寄のカトリック教会へ乗り込んでいった。

その教会のホームページを見ると、朝の10時からミサがあり誰でも参加可、と書いてあった。…ミサって何…??と思いつつも、まずは行ってみることが大事!と気を取り直し、俺はベビーカーに先陣を切らせながら、恐る恐る教会の門をくぐった。

田んぼの横にある、質素だけど綺麗で手の行き届いた教会だった。

ミサっていうのは、平たくいうと集会なんですが、神父さんが聖書の一節を取り上げて時事問題とかと絡ませてお話ししてくれたり、聖歌をみんなで歌ったり、お祈りしたりする場です。

「おぉ、本当にみんなでアーメンって言いながらお祈りしてる…!」
アーメンを唱えながらのお祈りは、そういえば幼稚園のときに、帰りの挨拶として毎日していたはずだけど、今となっては全く異世界の出来事に思えた。でも、嫌な感じはしなかった。

俺は赤ちゃん連れだったので、窓から教会の大広間がのぞける個室の子供部屋に通してもらった。
そこには、2歳くらいのお子さんを連れた、俺と同い年くらいの夫婦が先にいた。
しばらく我が子をあやしたりして時間を稼いだ後、俺は勇気を出して彼らに声をかけた。

「こんにちは。私は今日初めてこちらの教会にきてみたんです」

すると奥さんの方が答えてくれた。

「そうなんですね〜。実は私たちも、最近通い出したばかりなんですよ」

「そうなんですか!?」

いた!お仲間がこんなところに!!と思ったのもつかの間、

「はい、私たち最近こちらに引っ越してきたばかりで。初めての教会って、慣れるまで時間かかりますよね」

…そういうもんなんですか。。お仲間じゃなく、大先輩やった。。。

「実は私、これからキリスト教に入ろうかなと思ってて、今日初めてミサに来てみたんです。」

二人は、特段変な顔もせず、俺を受け入れてくれた。とても仲の良さそうな穏やかな夫婦だった。夫婦で同じ宗教を信仰して、休日にゆっくりと家族みんなで祈りをささげる。すごい素敵だなーと思った。

俺の妻は「キリスト教?なにそれ?煮たらうまいの?」とまではいかないまでも、キリスト教にはあまり関心がない。だからこの夫婦を見ていて正直うらやましいなぁと思ったものだった。

とはいえ、俺は俺の道をゆくしかない…!お昼前にミサが終わると、俺は勇気を振り絞り、受付をしていたおばちゃんに話しかけた。

「あの、私、wattleと申しまして、こちらの、キリスト教にですね、興味がありまして……入会?とかを、してみたいなと考えているものなんですが……」

…何て言ったらいいのか分からくて焦った(汗)

それでもおばちゃんは俺の意図を汲んでくれて、「あらあらまぁ若いのに珍しい!赤ちゃんまで連れて。今神父さん呼んできてあげるから、ちょっと待っててね」と言って、俺の人生を変えることになる神父さんを紹介してくれた。

■ 神父さんとの会話

神父さんは、俺と赤ちゃんを彼の執務室へ招き入れてくれた。

そこで俺は早速、これまでこのnoteで書いてきたこと…遠藤周作のこと、友人の死のこと、何となく、クリスチャンになってみて何か変わるような気がしていること、を相談した。

神父さんは、俺の話の一つ一つに静かに相槌を打ってくれた。俺が今日、教会へ来ることになった経緯、偶然かもしれないけれど運命めいた経緯を、理解してくれたようだった。

俺は、クリスチャンになるには洗礼を受ける必要があると思うけど、洗礼がどんなもので何が必要なのか全然分からないので、教えてほしいと聞いてみた。すると彼はこう質問した。

「wattleさんは聖書は読んでる?」

あれ、俺、こんだけキリスト教キリスト教言ってて、聖書、読んだことないじゃん。。。いいんだっけそんなんで。遠藤周作の本読んでだいぶ分かった気になってただけかも。。とりあえず正直にその旨と、聖書は持ってもないし読んだこともないと答えた。すると、神父さんは俺に話をしてくれた。

「wattleさんの場合、洗礼を受けなくってもいいんじゃないかな?wattleさんは宗教ってものを通じた知的好奇心の部分の方が強そうだから、自分自身で聖書を読んだり、調べだりして、考えてゆくっていう方が、洗礼を受けて毎週末ミサにきて過ごすよりも、いい気がします。」

そんなもんですか!!これまでも正式・形式的にクリスチャンになっていないことに負い目を感じていた俺としては、超目から鱗だった。気が楽になった。解放されたかんじがした。「いいんだ、自分の好きなように調べて、勉強して、考えていいんだ…!」

神父さんは続けた。「聖書を読むのが一番大事なのでそこは是非やってほしいけど、本田哲郎って神父の方が書いた、『小さくされた人々の福音』っていうのがおすすめだから、良かったらそれを買って読んでみて。この本は、聖書の原語にできるだけ忠実に日本語訳をされているものなんです。」

話したのは1時間くらいだったと思うが、俺は本当に、生まれ変わったような気分で、軽い足取りで家路に着いた。帰りの電車の中で早速、教えてもらった聖書をネットで注文した。

キリスト教のことや聖書の教えに本格的に触れていくのはこれからだけど、もう第2の人生が始まったような気がしていた。

■ 俺にとってクリスチャンになるとは

結局、俺にとってクリスチャンになるとは、例え他人が胡散臭いとか気持ち悪いとか言うようなものであっても、他人に何を言われようとも自分が好きなことをやる、一度きりの人生を自由に生きてみるっていうこと、そのものだった。

信仰を始めるのには、洗礼を受けた!とか、この日からクリスチャンになることを神に誓った!みたいな明確なターニングポイントが必ずしも必要ではなく、信仰心はじわじわと育っていくものだと思う。

この連載noteはこれで一旦終わりますが、引き続き別のnoteでは本格的に、キリスト教の内容について触れていく予定です!

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