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『沈黙』のクライマックスの「踏み絵」について語ってみる

written by wattle🌼

今回は、友人から俺の大好きな遠藤周作『沈黙』の感想を聞く機会があったので、それについて我流クリスチャンの視点から感じたことをつらつら書き綴りたいと思います。

■ クライマックスシーンと友人の感想

今日取り上げるクライマックスのシーンは、原作小説版でもスコセッシ映画版でも共通、主人公のポルトガル人宣教師ロドリゴが、長崎奉行に捕まり、拷問の果てに「踏み絵」による棄教(キリスト教を捨てること)を迫られる場面です。奉行はロドリゴに、「宣教師で皆から崇められているお前が棄教すれば、他の信者たちも諦めて棄教する。そうしたら、これ以上無駄なキリシタン狩りをせずに済む。お前の棄教で信者を救ってやれ」と、迫ります。

さて、俺の友人は感想はこちら。
『ロドリゴが最後に踏み絵を踏むとき、その葛藤が強すぎて、他の信者を救うために踏み絵を踏むことを神様が許してくれないはずがないじゃない、って思った』

俺も前に初めて沈黙を読んだとき、似たような感想を持った記憶がある。
『いやいやロドリゴ、踏めばいいじゃん!形だけのことじゃん!信仰心なんて外に見えないんだし。踏み絵踏んで落ち着いた後にいつでもばれないようにクリスチャンやったらええやん。』

さてその後、我流ながらキリスト者となった俺がどんなことを考えるようになったかご紹介します。(ロドリゴが最後踏むかどうか、ネタバレ含みます。)

■ 踏み絵は、思ってた以上に残忍だった

こちらは2018年11月、上野国立博物館で開催していた「キリシタンの遺品」展に行って撮ってきた写真です。
何千回、何万回と踏まれたのか、顔はすっかり摩滅してます。

去年これを見て俺が何を思ったかというと、「あ、これは、踏みたくないし、踏めないぞ...!」と直感的に感じた。

直感です。直感であるがゆえに、踏み絵の様子を見つめる奉行が、何の躊躇もなく踏んでみせるキリシタンではない人たちと、一瞬ためらいの色を見せるキリシタンとを、見分けるのは容易だっただろうな、とも思った。よくできた仕組みだ。

こ、これは踏めないよ…!勘弁して...」という当時の隠れキリシタンの人々の感覚。これはなかなか同じような状況にないので現代の我々には想像がつきづらいと思うんですけど、例えば、自分の一番大事な家族、恋人がとびっきりの笑顔で写っている写真を、他人が地面に置いて、「それ踏んでみな?」って言われたら、抵抗を感じませんか?

「お前のツレは、お前に悪い影響しか与えない、犯罪者のようなやつだ。お前以外のみんなが、あいつを頭のいかれたやつだと思っているぞ。俺はお前が心配なんだ。今すぐ別れろ。…よし! 今別れるって言ったな? でも、口だけじゃそれが本心か分からないからな…ちょっとこの写真、踏んでみろよ。」

と言って、無感動にピクチャーボードに貼られた一枚の写真がビッと小さく破り取られ、パラっと足元に落ちてくる。そこには、なぜか分からないけどみんなから嫌われてしまった、自分がこの世界で誰よりも信頼し、愛している人の、優しい笑顔の写真。。。(ちなみに、沈黙の中では、踏ませるだけじゃ足りないなと奉行所の役人が判断したときには、ツバを吐きつけさせてみるということもさせていました。)

さて、ちょっと現実味のない例になってしまったかもしれませんが、俺がここで言いたいのは、「踏み絵」という方法が、めちゃくちゃ非人間的、相手への尊敬や尊重の感覚が微塵もないからこそできるものだ、ということです。

キリスト教の特徴として、「人であるイエス」が同時に「神」でもある、というものがあります(三位一体)。(比較で、イスラム教の預言者ムハンマドは「アッラー(=God、神)」とはされていないし、仏教でもブッダ=神様、ではないはずです。)キリスト教の信仰をしている人(というか俺。)は、そんな特徴もあって、イエスやその母マリアを、自分の家族のように愛する対象として見ていると思います。ある意味、キリスト教では神が擬人化されていて、愛する対象として捉えやすいのではないかと感じています。「踏み絵」はまさにそこを上手く利用した、誰かを愛するっていう素朴な感情を巧みに利用した選別システムと言えるのではないでしょうか。

『沈黙』に戻ると、ロドリゴは実は、自分が踏み絵を迫られるときには踏むかどうかめちゃくちゃ悩むんですが、他のキリシタンが踏み絵を迫られているときには、「踏め!そんなことで神はあなたを見捨てない。踏んで生き延びろ!」と言っているんです。何事も、自分事になって初めて、その辛さがわかるもんなのかもしれません。。。少しでも想像力たくましく生きていきたいです。

■ 踏み絵を踏まずに殉教してゆく、強き隠れキリシタンたち

隠れキリシタンの人々の中には、拷問を受けても文字通り最後の瞬間まで信仰を捨てずに生き、死んでいった人たちがいました。

ロドリゴは、ろくにキリスト教の教えも受けられていない日本の隠れキリシタンが、目の前で壮絶な覚悟をもって殉教をしてゆくのを見ていました。
そして、自分はキリシタンの人々から、まるで救世主のように一身に期待を受けている立場…

踏むか踏まないか、どちらの道が正解なのか、、、自分の生涯をかけてきた使命に照らしてどう行動すべきなのか、信仰とは一体何なのか。ロドリゴ自身も判断はつかなかったのではないでしょうか。

■ 「鶏が遠くで鳴いた」

《こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。》

これが今回のクライマックスシーンの、締めの言葉です。ロドリゴは、葛藤の末に、最終的に踏み絵を踏んでしまいます。

さてここで、「拷問と葛藤の果てにコケコッコー?締めにしちゃかるいなw」ってシンプルに思った方(俺もそうでした。。)、実はここには深い深い遠藤周作のメッセージが込められています。

聖書では、イエスは十字架刑にかけられる前夜、裁判にかけられるために当局に逮捕されます。弟子のペトロは、この逮捕劇の最中びびって逃げ出しますが、「お前(ペトロ)は犯罪者イエスと一緒にいたやつだろ!」と言われたとき、「おれはイエスなんて知らない!」と言い逃れます。聖書ではこの『ペトロの否認』のときに鶏がなくシーンが描かれており、遠藤はここをモチーフにしてロドリゴのシーンを書いているのです。

このペトロは、イエスをある意味裏切り、捨てるようなことをしてしまったわけなんですが、最終的には、『俺はなぜイエスを見放してしまったのか、なぜイエスは一人で死んでいったんだ…』という問いを出発点に、キリスト教の核となる思想を生み出し、原始キリスト教のリーダーとして活躍することになります。
(ちなみに、カトリックの総本山、ローマのサン・ピエトロ(聖ペトロ)寺院は、このペトロの墓があった場所にちなんで建てられていると言われています。)

ロドリゴが踏み絵を踏んだ後に鶏が鳴いたという表現は、『誰かを裏切って終わりじゃない。むしろその後に始まる後悔や、なぜそんなことをしてしまったのかという自問自答から、新しい何かが生まれてくる』ということを遠藤周作は伝えようとしていたのではないでしょうか。

ちなみに、沈黙では、棄教の後のロドリゴのエピソードは少ししか描かれておらず、むしろそこは読者の想像に委ねられるような形になっています。

■ 脱線して、禁教下のキリスト教の不遇について

キリスト教禁教下の江戸時代には、キリスト教の根絶を図るため、
①「踏み絵」のほか、
②戸籍で把握されているすべての人にどこかの寺の門徒になることを義務付け、住職にキリシタンでないことを保証させたり、
③キリシタン密告者への賞金(最初は銀貨数十枚だったけど、後には数百枚(キリシタンが減ってきて賞金額が上がったのかも)
があったりした。

そして、見つかったキリシタンは、見せしめのために拷問、殺害…

この絵は長崎・雲仙の温泉を利用した拷問(1627年から5年続いた)の様子で、温泉は最高98度に達することもあったそうです。多くの殉教者が出ました。

ここまでくると、ナチスがユダヤ人をシステマチックに摘発・虐殺したのと、俺たちの江戸時代の先祖がしてきたことって何も変わらなくね?って気がします。他国の歴史からだけではなく、自分の国の歴史からも学ぶべきことはたくさんある。

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