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「ホモソ」が雑な批判に使われる場面を散見する。「(今を生きる)私にはこれはイヤだ」という思いは何より重要だが同時に、かつて「ホモソ」が担った機能を客観的に分析し、その機能的等価物を用意すべきと思う。「ホモソ」が解体されつつあるとして、得たものと同時に、失われた大事なものは何か。

加藤典洋も見田宗介も、「欲望」が大事で「必要」は功利(手段)だという。けれどそれは理論的な措定に過ぎず、人々を「私利私欲の徒からなる近代」へと移行させたのは、理論的には「欲望」であれ、実際には別のものだったろう。実際に世を進めている(ように見える)物への視点も欠かすべきではない。

BGMとして動画サイト内の深夜ラジオアーカイブを聴くことが日々にマンネリを持ち込んでる。面白いが、それらはアーカイブで、進む日々にはそぐわない。翻って、テレビは、その実面白くなく、似たような「トレンド」を繰り返していても、観る者に進む日々へのキャッチアップ感を与えるのではないか。

批評が政治的イデオロギーからの検閲だけでは面白くない。政治と無関係に擁護される〈文学〉を残すべきだと思う。しかし『怪物』の件にしても、〈文学〉が政治の声に真面目に応えるのは決して悪いことではない。〈文学〉の極北を探った「戦後後論」の加藤でさえ、文学は文学に安住したら腐ると認めた。

宮台主義者なので、マッチングアプリ的な出会いが当たり前になっているのが本当に時代の感性だとすればもはや「終わっている」と思うが、他方でそういう出会いにマジな享楽を求める感性も少ないかもしれないがあると思っていて、そうした「交換」の誤読は、優れて〈真白〉(岩井俊二)的で好きだ。

卒論、「筆者」という主語が多すぎるという批判があり、それはそうかとも思ったが、ぼくは加藤典洋を客観的に論じるのではなく、加藤をぼくがどう「受けとる」のかを書きたかったのだと得心した。加藤の価値を読者に押し付けるでなく、自分の受け取り方を示して、読者自身にも考えて欲しかったのだ。

テクストをちゃんと読まなきゃいい議論はできないと聞くと、いい議論ってなんだ、お前のそれは狭い文脈でマウンティングしたいだけだろ、この権威主義者め!とムキになることもあるが、まあ書き手への倫理はあるし、ちゃんと読むことは他者の立場に出ることecstasyで、得難い快楽だとも思う。

ボケる(痴呆)って、環世界Umweltを使うとどう記述できるのか。それは環世界の壊れなのか、それとも環世界は完備で、環世界と世界がズレているのか。しかし環世界という概念は、認識と体験の体系を「壊れ」「ズレ」と見做す目線への批判では?じゃあ単に「変化」?『生物から見た世界』読もう。

イタリア文学専攻の先輩と飲みの席で、私たちの学問のスタイルの違いはテクストと人物のどちらを尊重するかに由来するという話をした。ぼくはやはり人物だ!と思ったが、おそらく正確には、「人物のある世界体験があり得ること」に強い感動を覚えている。そういう「誤読」の仕方があるのか!と。

生きてること自体が壮大なボケで、いつか来る一度きりのツッコミで笑いがどっと起きると考えたら、いろんなこと、そんなには怖くない。

自分は同世代の同じような立場の人が感じるようなことを同じように感じている平凡なんだな、というのは、たとえそれが確かであっても、記号的操作による「私」の消費で、もっと体を労ってあげてもいいのかなと思った。

郵便がないはずの日曜日にホグワーツから大量に届く入学許可の手紙に狼狽し、「引っ越すぞー」と言って次のカットでは絶海の孤島に建つ一軒家にいるマグルのお父さん。絶対人生楽しんでる。

反応の奴隷になりたくないという気持ちがある。単純な反応ではなく応答をできたら、と。しかし、応答した結果は反応した結果と同じくらい滑稽であって欲しい。ニヒリズムは絶望とともに救済でもあって欲しい。

疑う余地がないかのように推奨される、適応、「しなやかに生きる」ことは原理的に倫理を踏み越えるダラシのないことだとどこか思ってきた節がある。けれど、これだけ状況が続くと、ひとまずは快活になることを一番に考えたくなってきた。少なくとも、まだまだひよっこだろ馬鹿野郎と自分に言いたい。