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緩やかなる崩壊へ

     軍艦島への調査上陸を経て

    廣部剛司

 一本の一升瓶が、それまで行われていた生活が突如として閉ざされたことを語るかのように朽ちた床の上に置かれていた。次の引き取り手を待つことを決めた炭鉱の街は、解体されることもなく、1974年の1月15日、住民を失った。

 1974年の閉山を機に無人島となった端島は、通称「軍艦島」と呼ばれている。その遠めの外観が、三菱造船で建設していた軍艦「土佐」に似ていることからついた呼び名は、その島に高密度に建設された建築群によって生まれたシルエットがその印象をつくり出している。今回の上陸調査では、そのシルエットをつくり出した大きな要因たる建築群を主たる対象としてみていきたいと考えていた。

 端島で石炭の採掘が行われ始めたのは19世紀の初頭で、もともとは南北約320メートル、東西約120メートルの瀬だった。三菱に所有権が移った後の1897年以降、6回の埋め立てを経て、面積は約3倍になったが、それでも南北約480メートル、東西約160メートルにすぎない。その炭鉱施設を含めて約6.3ヘクタールのスペースにピーク時は5000人以上の人々が暮らしていた。

 松ヶ枝桟橋から船で約30分。そのシルエットが見えたときの印象は、以前から写真で見ていた印象のままだったが、船が桟橋に近づくにつれ、その建築群が如何に朽ちているのかが目に飛び込んでくる。軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録されたのは記憶に新しい(2015年)が、その時の登録対象は明治期に作られた岸壁と非公開の海底坑道のみである。そのため、世界遺産登録によって保存が義務づけられているのはそれらのコアゾーンのみであり、その他の建築物などはバッファーゾーンとなっているために現状では、ほぼ崩壊するままとなっているのだ。

 桟橋から上陸すると、最近になって整備された上陸見学用のエリアにつながる。そこから通常は立ち入り禁止区域となっているエリアに足を踏み入れると、足元が一面の瓦礫に変わる。足元に気をつけながら進んでいくと日本初の鉄筋コンクリート造(以下、RC造)高層アパート、30号棟が目に入ってくる。この建築が竣工したのは1916年のこと。当初は4階建てであったが、後に7階まで増築されている。現代の感覚からみても、かなり削ぎ落とされた印象のモダニズム建築である。しかし、この建築がつくられた年代をあらためて俯瞰してみると、コンクリート建築の先駆者の一人であるオーギュスト・ペレのフランクリン街のアパートメント(1903)や、ペーター・ベーレンスのAEGタービン工場(1909)などモダニズムの萌芽とも言える建築が完成した時期と、それほど変わらないことが見えてくる。ましてやル・コルビュジエがエスプリヌーヴォーを創刊するのが1920年、実際の建築活動の多くがそれ以降に活発に行われ、近代建築5原則の象徴のようなサヴォア邸の竣工時期が1931年であることからも、この建築が世界的潮流の中からみても最初期の、そして日本では最初のRC高層アパートというだけではなく、モダニズムスタイルの貴重な証言者である事がわかる。

 そのプランは大胆にとられた中庭を囲うようにして諸室が高密度に並んでいる。現在は倒壊の危険があるということで、調査団も中に入ることはかなわなかったが、6畳間の個室が四方を囲む中庭まわりには、比較的広めの通路が取られており、協同となっていた便所への行き来だけではなく、ここが下町の路地のように機能していたことを想像させる。上部から屋上をみると、柱やシャフトはさらに上階への増築を想定して突き出ている。これは、島の高密度化に対して、更なる伸張の可能性を保持していたことを示している。RC建築をできたときだけではなく、その後の拡張性も含めて計画していたことが伝わる。

 さらに足元に散らばる廃材やガラス片に注意しながら進んでいくとパブリックゾーンであったエリアに差し掛かる。ここでは、人口密度が高く厳しい環境であったであろうという想像だけでは括れない、島の活発な生活の端緒を感じることとなる。象徴的だったのは柱や壁に残る鮮やかなモザイクタイルだ。映画館があり、飲食店やパチンコ店があり、本屋があり、市場がありと島の生活を支えるだけではなく、娯楽も提供していた。ただし、このエリアの建築群はあまり残っていない。それはRC造の劣化というよりは台風による被害が大きいのだという。徐々に拡張されながら形成された護岸でも、台風時の波の影響は大きいという(島内には土が洗われ、基礎と杭が完全に露出した状態になっている場所も存在する)。

 この島内で最も古いRC建築群に、1918年竣工の高層の日給住宅がある。これらの住宅は細長い中庭を挟んで建ち並んでいるのだが、高層と言うよりはまるで「地下深く」掘り下げられたような印象を与える。それはこの島の地形が大きく関係している。もともとの島の地形には中央付近に峰のような盛り上がりがあり、これが島を大きく2分している。その丘に突き当たるように建築されているため、細長い中庭はまるで掘り下げられたような印象を与えるのだ。その建築に注視してみると、ラーメン構造に木製建具や手摺などが嵌め込まれ、明確にスケルトンとインフィルを分離した構造である事がわかる。実際にどの程度の改変があったかは想像するしか無いが、スケルトンを残してインフィルを変更していくことは容易であったであろうことが想像できる。確かに掘り込まれたような細長い中庭に面しているため、一見暗く見えるのだが、広めの通路は洗濯スペースなどを兼ねていて、さらにラーメン構造の特徴から実は開け放たれた建具越しに次のエリアの中庭まで視線が抜ける場所が多く存在したことがわかる。その内部空間は想像していたよりかなり「開けて」いたのだ。

 あらためて島全体を見返していくと、地形を読みながら高密度なRC建築を挿入していくことで、この場でしかあり得ない全体性を獲得している。それは確かに限られた土地に高密度な生活空間を確保する必要に迫られてつくられていったものには違いないのだろうが、建築的視点からみていくと、そこにユートピックな全体性を感じるのだ。そこには小学校があり、プールがあり、寺院や神社、公園や屋上庭園も設けられていた(火葬場と墓地は近くにある無人島(中ノ島)が担っていた)。

 この建築群がつくられていた頃、イタリアではサンテリアなど未来派の新都市をイメージしたドローイングや、フランスではガルニエによる産業都市の提案など、新たなる建築手法(構法)によって、建築の変革による都市の新しい未来像が描かれていた。それをまるでいち早く実践に移したような小都市に見えてきたことは、世界の潮流と無縁のことではなかったのではないかと思えるのだ。

 実際に島内の建築群をつぶさにみていくと、これを完全に修復して安全性も確保するというのは非常に困難な道である事がわかる。しかし、例えば多くのローマ遺跡が崩壊の途上で凍結され、人類の遺産として残されていることを思い起こすと、この建築群の崩壊を少しでも食い止め、ゆるやかな崩壊に移行させることは、日本近代建築の萌芽を守り、ユートピックな希望を込めた建築を後世に伝えていくために、必要なことではないかと思えるのだ。


写真:すべて 廣部剛司 撮影 ©Takeshi Hirobe2018


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