大切なのは主体性なんだね
余計に考えたりしないことが心の平安に繋がるなぁと最近思っている。普通に生活し、仕事をしていれば考えることなどいくらでもあるので、いかに考える時間を減らすかが、心おだやかに暮らすコツだなと思う。
要は考えというものは自然発生するものであって、場や時間をわざわざ作ってウンウン唸るとろくなことはないよと思うのです。
しかしこうやって文字に起こしてみると、考えないことで仕事でミスばかりしたり、人に対する配慮が足りず、社会生活を円滑に進められないような事態も考えられるなと思った。そんなシーンをイメージすると、考えることをシンプルに害だとする考えは成り立たないなと思う。
そんな物事がうまくいかないシーンでは、疑問を持つ姿勢があれば自然と解決していくように思う。なんでこんなミスをしたんだろう?どうしてあの行動があの人の気分を害したんだろう?
でもなかなか改善しないことがあるのは、そういった疑問が湧きづらい体質だからのような気がする。じゃあどんな体質なのか。
疑問の前提には物事をよりよくしていこうという気持ちとか、みんなが幸せに暮らせたらいいなとか、もっと楽に生きたいな、といった気持ちがある気がする。そういう姿勢があるから疑問が生まれる。つまり自分はこうあろうという方向性がない。疑問が湧きづらい体質とは、そんな体質なんじゃないだろうか。一言で言えば主体的でない。
そう考えると、
■自分はこうありたいという主体性
■それに付随して起こる疑問
■それについて考える
という流れが自然な思考プロセスで、精神状態にプラスに作用するけど、それ以外の思考、つまり主体的でない思考は精神状態にマイナスに作用するのではないか、そんなことを思いました。
ふぇ〜、なんだかめっちゃ考えた。
最近書くネタには困らなくなりました。書くことは大抵いくつかある。でもただダラダラ日記を描いても仕方ない。話したいことを書きたいし、せっかくなら読んでくれた人の好奇心を少しでも刺激できればいいなと思った。今朝は。つまり今まであまり考えてなかったんです。毎日何か書ければいいやと思ってた。
でも今日は違って、書く前に「本当に話したいことは何か?」などという漠然としたことを考えていた。そうしたらなんだかモヤモヤしてきて、この思考プロセスはあんまり良くないやつだ!と思ったので、それについて書こう!と思って書き始めた。それがこの投稿が生まれた背景です。
ただこの漠然とした問いを書きながら自分に自問して、書いては読み直し、一部を削除して書き直し、などということをやるのは案外楽しかったですね。楽しく考えられた。
基本的には頭を空っぽにしていこうと思いますが、楽しい思考はどんどん増やしていきたいなと思った次第であります。
おしまい。
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