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キング・クリムゾンの思い出 ①

キング・クリムゾン(King Crimson)の日本公演が先日終わった。このnoteは主にフィッシュマンズについて書いていることが多いが私の個人的に好きな音楽ジャンルで言うとブラジル音楽とプログレッシブロックである。特にキング・クリムゾンは中学3年生から高校までどっぷり影響を受けまくったアーティストであり、さらに大人になり念願の音楽業界で働きはじめてついに仕事としても関わることが出来たという奇跡のような存在のアーティストでもある。そんなキング・クリムゾンを52年以上にも渡って率いてきたロバート・フリップが最後の公演地として日本を選んだというストーリーに参加させてもらった。何回も抽選で落ちて半ば諦めていたのに、おまかせエントリーでポロッと取れた12月7日渋谷オーチャードホールの前から○列目(一桁)の一般の聴衆として。


という訳で個人的にも盛り上がってしまいちょうど40年前の1981年12月の初来日公演のことを急に思い出した。多感な中学3年生の頃に初めて友人から「宮殿」を聴かされ衝撃を受けて最も影響を受けながらも、その時にはすでに解散しており新作を聴くことが出来なかった伝説のグループ、キングクリムゾン。折しも1979年から1980年の頃はパンク/ニューウェイブの勃興と引き換えにプログレッシブ・ロックは終わったみたいな空気が流れ、鳴り物入りのUKも空中分解みたいな終わり方だったしBRUFORDを通じてカンタベリー系や裏プログレ4大グループ(ソフツ、キャラヴァン、VDGG、GG)、そしてたかみひろし先生が監修していたユーロロックコレクションへとどんどんマイナーな方向に興味が向かっていた暗い高校生の自分には1981年の夏にリリースされた(はず?)の復活第1作から「エレファント・トーク」「フレーム・バイ・フレーム」を初めてFMラジオで聴いた時の「?」感、ポリドールから発売された「ディシプリン」日本盤を購入して聴いてさらに増す「?」感と「もうプログレッシブロックは終わったのか」と落胆した気持ちに思わせるには充分な内容だった(当時はガキンチョゆえ視野が狭くニューウェイブやワールドミュージックなど新しい音楽の流れを理解出来ておらず80’sクリムゾンの革新性を分かっていなかった)。

まあそれだけ70年代末の日本に於ける、特に74年解散の後追い世代にとって、キング・クリムゾンは「高い芸術性を誇る真のプログレッシブ・バンド」で高尚・崇高なイメージであり、「アニマルズ」のピンク・フロイド、「トーマト」のイエス、「作品第2番」のEL&Pら堕落したプログレ大御所グループとはレベルが違うのだよと勝手な思い込みをしていた。当時の音楽雑誌〜特にロッキング・オンとかロッキンF、プレイヤーなどマニアックな雑誌メディアはこの論調だったし、今思えばこのイメージはシンコーミュージックから刊行されていた北村昌士さん著の名書「キング・クリムゾン〜至高の宇宙を求めて」によるところも大きい。いずれにしても高校生男子の勝手な恥ずかしい思い込みをしていたものだ。

キング・クリムゾン待望の初来日のニュースを聴いてどうやってチケット買ったのかも覚えていないが高校時代の友人たちが取ってくれたのだろう。友人たち3〜4人と連れたって受験生真っ只中の12月来日公演に行った。なぜか外タレがよく使う新宿厚生年金とか中野サンプラザではなく浅草国際劇場という聞いたこともない会場だった。確か田原町で降りて国際通りを歩いて行ったはずだがすごく寒かった印象がある。そしてその公演がいつだったかも全く記憶無いのだがこの機会にコレクターズクラブでリリースされた1981年JAPANツアーの浅草国際劇場シリーズを何作か購入してみたところ、あることで公演日は12月15日(火)であることが判明した。それは途中のエイドリアン・ブリューによる「客席煽り」である。(続く)

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