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西武大津店を作ったのはうちの父だった

続きを書かなければならない記事もありながらずっと更新できてなくて心苦しいのですがちょっと面白いことがあったので短めの記事を書こうと思います。

先日なんの気に無しに寄った書店の店頭で大きく展開されていたのがこれ
「2024年本屋大賞受賞!」の平積み。

POPに描かれているイラストの女の子のタッチに見覚えがあるなと思ったらロッキンフェスやアンジュルムファンにはお馴染みのイラストレーター、「ざしきわらし」さん、どうやらこの本が今年の本屋大賞の受賞作らしいです。手にとってパラパラとめくってみると初っ端から「ありがとう西武大津店」。私は思わず平積みからその本「成瀬は天下を取りにいく」を会計カウンターに持っていったのでした。

これまでこのnoteの記事でも何度か言及したジャズ好きの父、父はかつて西武百貨店に努めており西武百貨店の関西進出チームの責任者でした。1971年の心斎橋パルコ、1974年の西武高槻ショッピングセンターに続き3つ目の店舗となったのが西武大津ショッピングセンターであり父はその初代店長を努めていました。

1976年6月、西武大津店(確か当時は西武大津ショッピングセンターと呼んでいたと思いますのでその名称で使わせてください)が開店しましたが、私はちょうど中学2年生の初夏のころ。同級生の友人を誘って出かけていった記憶があります。当時は大阪と京都の間に高槻市に住んでいたので京都駅より向こう側に行くのは初体験でしたし、しかも「膳所」という読みにくい名前の駅は大津駅よりも先、さらに駅降りてから10分以上歩くという不便なところに建てたんだなあという印象でした。しかしながら当時の父は大津西武にとても自信を持っていたようで「すごく面白い店が出来るぞ!」と家でも自慢気に話していたので期待しながら駅からの坂道を汗かきながら登ったことをよく覚えています。

1970年代当時、百貨店やデパートと言われる大型の商業施設は大都市や地方でも県庁所在地みたいなクラスの都市でない限り出店するのは難しいと言われていました。大阪ならキタの梅田、ミナミのなんば、京都も河原町や烏丸の四条周辺、神戸も三宮や元町といったように、当時はその以外のエリアに出店するのは無理と言われていたところ、父が率いていた西武百貨店関西チームは、当時大阪と京都の間の都市だった「高槻市」にデパートとして初出店し大成功を収めました。西武高槻ショッピングセンターはその後2019年まで営業を続けそのまま「阪急高槻」としてリブランド、現在でも営業を続ける優良店舗として存在しています。今では郊外型のショッピングモールなんて当たり前の存在ですが、50年以上も前の日本では前例が無い商業施設であったと思います。完全に身びいきになって恐縮ですがその高槻SCの成功もあったので父としては大津SCもひそかに「勝ち筋」を見つけていたようです。

今では駐車場を備えた大型ショッピングモールも当たり前ですが西武大津SCは立体駐車場を備えた奇抜なデザインを持ち、また高槻SCでも成功した百貨店以外にスーパーや専門店の多様なテナントを導入するなど当時としては画期的な店舗でした。当時のラジオ取材などで取り上げられていたのを記憶していますが当時はまだ存在していなかった「マンガ・コミックス」専門店を作り、自分が行った日もマンガを立ち読みする子供たちで店内はいっぱいでした。父はマンガを読むのが好きで70年代の劇画系ものを良く読んでおり、おかげで自分はマンガの購入予算は父を当てにしていたほどでした。そのラジオでも大津西武の店長がマンガが好きだから専門店を作ってみたと言っていました。

とにかく自分が友人と行った日がまだ開店から間もないこともあり店内中が大変な人混みでごった返しており、最上階の飲食店フロアで鳥を放し飼いしているバードスペースまで行き着いたところでくたびれ果ててその日は退散した覚えがあります。その後しばらくして父の運転する車で家族で再び大津西武に行き、その時はホール的な場所で開催されていた本格的な美術展「マティス展」を見学した記憶があります。その後の父の部屋には大津西武で開催された「ダリ展」などの美術図録がいくつもあったので本格的な美術展が何回も開催されていたのだろうと思います。

その後、自分も社会人になり、90年代後半と2010年代の半ばにはそれぞれ大阪の営業所で仕事をしておりました。90年代後半は宣伝プロモーターの仕事をしており、東京からアーティストが来阪すると、当時FM滋賀が大津西武に隣接する大津パルコ内の公開スタジオでの番組に連れて行ったりしていました。その時は近くまで行きながらアーティストを連れていたりしたため大津西武の店内には入ることはありませんでした。しかし開店当初は大津西武の周りには何もなかったはずなのに、20年後には西武とパルコが並び立ち周りは大きなマンション群がたくさん立ち並ぶような住居と商業施設が隣接する一大レジデンス街へと変貌を遂げていたことに驚きを感じました。大津西武の出店が地域に活性化を与え、おそらく本の中に出てくる「成瀬」や「島崎」のご両親もそんな賑わいを見せた大津におの浜に魅力を感じて移住してきたのだと思います。

さらに20年後の2015年の2回目の大阪勤務の時はもう一度大津西武を訪ねたいと思って休日に足を運びました。その時の写真が残っていますが大津西武の周りは変わらず大型マンション群でいっぱいでしたが、ちょっと老朽化した大津西武の店舗は閑散としており時代の変化についていくことの難しさを感じたものであります。

2016年頃の西武大津店、緑色のピラミッド状のフレームがかつてのバードパラダイスだった。

その後1年あまり異動で東京に戻ってしまったので膳所に行くことは二度と無かったのですが、2020年のコロナ禍の中で44年の歴史に幕を閉じるという記事を目にして、閉店前に行っておいて良かったと思うとともに一抹の寂しさを感じたものです。

「成瀬は天下を取りにいく」はちょうど自分が西武大津SCが開店した年齢と同じ中学2年生の女の子、成瀬と島崎が主人公。西武大津店が閉店する2020年の8月、コロナ禍の夏休みが舞台となっています。この二人を中心に西武大津店の閉店やその後の成瀬を描く6篇の短編が掲載されているのですがここまで一つの商業施設がストーリーのテーマになるなんて予想もできませんでした。

「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」
こんな宣言を中学2年生の年齢でしてしまう「かつてない最高の主人公、成瀬」を創り出した原作者の宮島未奈先生のイマジネーションも最高ですがそんな宮島先生を含め膳所を始めとする大津市民、いやもしかすると滋賀県民の皆さんに影響をあたえることになった西武大津店の存在。決して歴史的な建造物などではない単なる商業施設であったはずの西武大津店が如何にこの街に大きなカルチャーとインスピレーションを残していったかについてこの「成瀬は天下を取りにいく」の行間から伝わってきます。私の父や当時の西武百貨店関西チームのクリエイティブには驚かされるばかりですが、私はここでも人生の伏線回収を見たような思いにかられてなりません。

ちょうどX(Twitter)上でジャズフュージョン・グループの古典、ウェザー・リポートの1stアルバムについて父から教わったエピソードを絡めてポストをしたりしておりました。父は私の幼い時からジャズやクラシックの多層的で複雑な構成の音楽を、子供であろうと容赦なく触れさせてくれました。また休日は千里セルシー、阪急三番街、千日前や道頓堀、京都の祇園など関西近郊の繁華街や商業施設の見学によく一緒に連れて行ってもらったものです。そこでよく「この導線じゃ狭い」とかよくぶつぶつ言っていた父が作った商業施設が決して小さくはない街にカルチャーを作っていたことがわかりました。父の死後20年近くになりますが、これ以上の喜びはありません。近々命日なので墓前に行って報告しようと思います。思い切り身びいきの内容でしたが最後までお付き合いいただいてありがとうございました。

最後にちょっと父の写真を整理していたら出てきました。
一つはおそらく西武高槻SC開店時のもの(右側の男性が父です)、
もう一つはおそらく西武大津SCの建築モデルの写真ではないかと思います。
大事にとっていたんだなあ。

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