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【日記】3年前の匂蕃茉莉とコロナ禍

今日(日付変わって昨日)、複数人との会話の中でコロナ禍を振り返る機会があった。
ごく自然な流れでコロナ禍の話題になり、特にとりとめのない雑談で終わる。

そんな普通の会話でも、コロナ禍の話題が出ると、ふと暗い気持ちになることがある。
私は個人的に、コロナ禍は経済と人権を軽視しすぎたのではないか?と思っているからだ。

健康は大事、病気にはならないほうが良い、そんな「正論」を振りかざし、感染対策一辺倒になる。
そして経済と人権、人間らしい生活や自己決定権を軽視する。
一時期のそんな流れに疑問を持つことも少なくなかった。
デルタが落ち着くまでの感染対策はある程度理解するが、オミクロン以降の国の感染対策の方針には大いに疑問が残る。


ただし、私は医療の立場を全否定するつもりはない。
医療側が感染状況に警鐘を鳴らし、感染対策を訴えること自体は否定しない。
医療側は医療側で言わなければならないことがある。
それはある程度理解しているつもりだ。

特にネット上では、感染対策ばかりになって人権や経済を軽視する層、逆に医療と名のつくものを極端に否定する層、いろいろいるが、私はどちらも好まない。
そういう層は正義の押し付け合いのような口論をするが、私はその手の争いは趣味ではない。


誰かと議論することはあっても、感情的な口論にするつもりはない。
それは議論とは言わないからだ。

今日も会話の中でコロナ禍の話が出たが、考え方の違う人がいても口論になることなどない。
軽く議論することはあっても、それは口論ではないのだ。

こんなことは当たり前の話である。
しかし、その「当たり前」がうまくできないネット社会。
世間がギスギスして荒れるのも無理はない。
コロナ禍はまさにその典型例だろう。


さて、今日は、そんなコロナ禍真っ只中の3年前、とある場所で撮影した匂蕃茉莉(ニオイバンマツリ)の写真を。
(例によって私のインスタグラムから引用)


私は散歩に救われた経験が多いが、コロナ禍も例外ではなかった。

今でもふと思い出すコロナ禍。
大変な思いもしたが、あの時の経験、少しでも自分の糧としたいものだ。

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