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宗教思想のない自分と、宗教に対する世間の風当たりについて

私は昔から散歩の途中で神社仏閣に寄ることが多い。
が、別に宗教的な思想を持つわけではない。

一方、私は宗教を信じる人を否定しない。
知人に宗教を熱心に信仰する人もいるが、互いのスタンスを尊重して普通に接することができる。

そもそも日本は信教の自由が保障され、宗教を信じる信じないは個人の自由だ。
しかし昨今、宗教への風当たりがやたら強いように思う。
宗教を信じない私でも、そんな昨今の風潮には違和感を覚える。


…という話を先日インスタグラムで書いた。
noteにまとめても違和感のない内容かと思うので、こちらでも書いておきたい。
以下、その投稿の文章を丸ごと引用する。
(インスタグラム用の文調になっている点はご容赦願いたい。)



僕は昔から散歩の途中で神社仏閣に寄ることが多い。
が、別に宗教的な思想を持つわけではない。

神のような存在を信じるわけではないし、何か強いお願いごとをするわけでもない。

運気を上げたいと思ったことも、救ってもらいたいと思ったこともない。
スピリチュアル思想に至っては正直よくわからない。

それでも神社に入れば、境内社も含めて参拝する。
寺も、一般開放向けの場所であれば参拝しに入る。

手を合わせて目を閉じ、頭を下げる。礼をする。

では参拝中に何を考えるかと言えば、特に考えない。
感動的な風景に出会うと、思考がスッと消えるでしょ?
あれと似た感覚。
考えが頭に浮かぶとかそういった話ではなく、神社仏閣そのものの雰囲気をただ感じるだけ。

境内を歩いたり案内板の文を読んだりする時、その神社仏閣や付近の歴史に思いを巡らせる等のことはあっても、参拝として手を合わせて目を閉じて頭を下げるとき、特別な思考はない。

.

もちろん僕は宗教を信じる人を否定しない。
また、神社仏閣で何かお願いごとをする人も、運気を上げたいと考える人も、あるいはスピリチュアル思想を持つ人も、何も否定しない。
思想は個人の自由であり、尊重する。

現代の日本においては信教の自由が保障されるので、宗教を信じる自由、信じない自由のいずれも許される。
思想そのものの自由が許される。
過去云々の話ではなく、現代日本のシステムがそうなっているという話。

.

で、これが一番言いたいことなのだけど、

信教の自由がある以上、僕みたいに宗教を信じないのも自由だが、何か熱心に宗教を信じるのも自由なわけ。
そこに差などなく、みんな対等なわけ。

しかし昨今、宗教への風当たりが強いように思う。

宗教思想のない立場として再度強調したいのだが、宗教を信じる信じないは完全に個人の自由なわけ。
そこは互いに尊重すれば良いだけの話。

僕の知人には、僕みたいに宗教思想のない人もいれば、熱心に宗教を信じる人もいる。
しかしそこに何か差などなく、対等にコミュニケーションが取れるわけ。
それで良いと思うのだが。

しかし世間ではなかなかそう思われないようで。

確かにカルト宗教のようなものは好ましくないが、それでも個人の自由や信教の自由は最大限尊重されるべきで、一部の宗教に問題があるからといって全ての宗教が悪いわけではない。
宗教全体への風当たりが強いのは理屈としてはおかしな話。

宗教思想のない俺だからこそ、ここはきちんとしておきたい。

.

…とまあ、いきなり何の話だと思うかもしれないが、ネット上で個人の自由を軽視する言説が多いので一言。
長すぎる一言。

もともと宗教関係に詳しくないため、薄い内容なのはご容赦願いたい。




補足

今回は特に大きな補足はないが、何点か。

思想の自由、個人の自由、そういったものを軽視する言説をしばしば見聞きする。
この多様性の時代、その自由を軽視するのは時代に逆行しているのでは?と常々思う。

そもそも、個人の自由は宗教も例外ではない。
現代日本のシステム上、信教の自由が保障されているのだから当然の話だ。
宗教を信じない私でさえ、その自由を軽視するような風潮に違和感を覚える。

というより、私が宗教を信じない自由も、「信教の自由」で保障されているものである。
信教の自由とは、宗教を「信じる自由」と「信じない自由」があるのだから。

私が宗教思想を持たないことが「信教の自由」で保障されるのなら、私は「信教の自由」という仕組みを尊重する。
そして、同じく「信教の自由」で保障される他者の「宗教を信じる自由」も尊重する。
簡単な理屈だ。


確かに一部のカルト宗教等には問題があり、個人の自由だけで片付けられない部分もあるが、だからといって宗教全体に矛先が向く流れは論理的ではない。
冷静に論点を整理することが大事だ。
私は宗教思想がないからこそ「信教の自由」を大切にする。
これは何度も強調したい。


それと、「宗教は多様性を否定する」といった主張を見かけることもあるが、それも「宗教による」としか言えない。
一部の宗教は多様性と逆行するかもしれないが、宗教の全てが多様性を否定する証拠・エビデンスはない。
また、宗教全体を否定して個人の信仰の自由を軽視するほうが、よほど「多様性の否定」に該当するだろう。
宗教思想のない私だからこそ、こういった論点も強調しておきたい。


長いのでここで終わりにするが、多様性の時代だからこそ思想の自由等の考察は続けたいものだ。

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