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【日記】五月病という言葉に対する違和感

世間はGW明けだが、私は今遅れてきたGWを過ごしている。
といっても諸事情でやることは多く、のんびり休むわけではないが、一時的な解放感を味わうのにはちょうど良い。

休みは休み。
そこは素直な気持ちで解放感に浸りたいものだ。


さて、毎年この時期に強く思うことがある。
それは「五月病」という言葉に対する違和感だ。
本日、とあるきっかけでこの違和感を再確認したのだが、前々から思っている五月病への考えについて日記にまとめたい。


まず大前提として、この時期に精神的な不調を抱える方がいるのは理解する。
かく言う私も以前、5月にいろいろ思い悩んだ経験は多い。

一方、世間では五月病という言葉が独り歩きし、この時期の悩みは五月病として一括りにされがちだ。
精神の不調や悩みは人によって異なるはずなのに、大ざっぱに五月病として判断される。
そんな風潮に強い違和感を覚えるわけだ。

そもそも「五月病」というのは正式な病名ではない。
五月病という言葉を軽々しく使うと、人の悩みに対する不理解につながるのではないか?との懸念がある。

例えば、この時期に悩みを抱える人に向かって、
「それ五月病じゃない?じゃ大丈夫でしょ」
と片付けてしまう人、実は一定数いるのだ。
五月病はよくあるから大したことはない、という判断なのだろう。

また、五月病は5月だけのもので5月が終われば大丈夫、などと軽いノリで片付けてしまう人もいる。
病名(正式ではない)に5月という時期が明記されているため、「5月が終われば大丈夫」という印象を与えるのかもしれない。

しかし5月に精神的な辛さを訴える人は、5月が終わって6月になれば悩みが解決するのか?
6月になれば不調が治り、また元気になるのか?
本当にそう言い切れるか?
そんな断言はできないだろう。

このように、五月病という言葉を軽々しく使うことは、一歩間違えると人の精神の不調を見誤るおそれがある。
こうした点が、五月病という言葉に私が違和感を覚える大きな理由だ。


この時期に悩みを抱える人を勇気づけるため、
「5月が終わればまた元気になれるよ」
と声をかけるのなら良いかもしれない。

しかし、凄まじく軽いノリで
「五月病なんだから大したことない、5月が終われば平気でしょ」
などと片付けてしまうのは好ましくないだろう。
状況と言い方にもよるが、簡単に「五月病」という言葉を使う風潮にやはり違和感は残る。


それからもう一つ。
私は昔から5月が好きなのだ。

完全に個人的な話で恐縮だが、私は5月という独特の時節が好きなのである。

新緑も本格化し、春から夏へ季節が慌ただしくなる。
場所によっては紫陽花が咲き始める。

春気分でいたら、いつの間にか夏になる。
その慌ただしい変わり目が好きで、どこか心が躍る。
季節の変化は全般的に好きだが、特に5月には思い入れが強い。

そんな私からすると、「五月病」という言葉で5月にネガティブなイメージがついてしまうことに、何とも複雑な感情を抱く。
完全に私個人の感想で申し訳ないが、世の中には5月が好きな人もいるわけだ。

「五月病」という言葉はいつから使われたのだろうか?
いつからこういう状況になったのだろうか?

変な話だが、世間で五月病という言葉が溢れると、5月好きとしてはある種の肩身が狭い思いをするものだ。


最後に。
そんな5月の花に、車輪梅(シャリンバイ)がある。
マイナーな花かもしれないが、春から夏へ変わるこの時期の、初夏の花だ。

またインスタグラムからの引用だが、3年前のコロナ禍、とある場所で撮影した車輪梅の写真を。


今日はふとしたきっかけで五月病に対する違和感を再確認し、今日の振り返りとさせていただいた。

人それぞれの5月。
寒暖差に注意しつつ、過ごしていこう。

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