つらつら日記~決断の奴隷~

本:暇と退屈の倫理学 國分功一郎

 決断するためには、何一つ言うことを聞かなくなる全体に引き渡されることが必要である。決断とは何もないところから何かを作り出すことであろう。したがってそれは、常に無根拠であろう。(中略)決断をせずとも、目の前に与えられた条件や情報を吟味することで、今後の指針は得られるかもしれないというのに、そうした条件や情報からわざと眼をそらして、わざわざ決断へと身を投じる。

暇と退屈の倫理学 p343

〇筆者は、ハイデッガーの退屈論を批判しながらこの話をしている。
〇ハイッガーの退屈論とは、退屈を3つの形式に分けている。
 1 第一形式:暇で退屈している状態
 2 第ニ形式:暇ではないが退屈している状態
 3 第三形式:なんとなく退屈
〇ハイデッガーは第三形式の退屈が一番深い退屈であるとしている。なぜなら、そこでは、気晴らしができないからである。そして、気晴らしができない退屈は苦痛を伴う。対処のしようがないからだ。
〇そこで、ハイデガーは第三形式の退屈に対抗する手段として決断を推奨した。しかし、筆者は、「受け入れがたいものがある」として、批判し、次のように言う。

 しかし、ハイデッガーのようにして最初から決断の必要性、(中略)を決めてかかるならば、(中略)ぎりぎりに追い詰められた人間が、仕方なく、周囲の状況に対して盲目になりながら決断(中略)へと身を投じるのではなく、決断(中略)をもとめて、目をつぶり耳を塞ぎ、周囲の状況から隔絶する…。
 周囲に対するあらゆる配慮や注意を自らに免除し、決断が命令してくる方向に向かってひたすら行動する。これは決断(中略)の奴隷になることにほかならない。

暇と退屈の倫理学 p345

〇つまり、筆者にとって決断とは盲目的な状態(奴隷状態)であり、退屈の対抗手段として、「決断の奴隷になりなさい」という解決策は認められないということだ。
〇ただし、注意しておかないといけないのは、決断もときには必要という見解を筆者が持っているという点だ。
〇決断が必要なときというのは、「ぎりぎりに追い詰められた人間が、仕方なく、周囲の状況に対して盲目になりながら決断(中略)へと身を投じる」ときだ。
〇なので、決断をしなくてもいいときにも決断をするのを批判しているのであって、決断=悪というような単純な議論はしていない。

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