卒業について [20240323]

卒業について

ぼくたちは死んだ。世界一の魔術師が命をかけて蘇生術を実行しても生き返らないくらい、完全に。ぼくたちは「ぼくたち」になることはない。剥製にされた動物の内部が二度と意志性を示さないのと同様に。

学生生活とは、奈落へ通じるトロッコ列車のようなものなのかもしれない。予定された通りの期日・筋書きで生命は剥奪されるのだ。それも、決定的な致命傷を負うわけではなく、われわれの生活を形成していた種々の事柄がゆっくり順番に終焉を迎えることで、知らぬ間に意識が奈落の底に落ちてゆく。そして、最後にはすでに糸のように細くなっていた呼吸が誰も気づかぬ間に途絶する。

しかし同時に、ぼくたちは生きている。他者の死に憶える空虚感を自らの死において味わっている。この言葉も涙も出ないくらいの寂寥は、他者の死に憶えるそれと同じである。そんなとき、往々にして人間は弔いの言葉を表明することで寂寥を紛らわそうとする。しかし、死の不可逆性を前にしては、そのような追憶・現前への渇望は空虚でナンセンスだ。世界一の魔術師の蘇生術が持つ希望を、弔辞は持たない。よけいに心が細らせるだけである。空を仰いで、生活の空白を埋めるために新たな趣味の一つふたつを始めてみる決意をするくらいが、せいぜい我々が取ることのできる有効な手段なのだ。

しかし、そのようにあしらえるほど、ぼくたちの心は冷酷でない。冷たく硬直したぼくたちの皮膚をなぞってみれば、そこには体温と感情を持ったぼくたちが存在した痕跡が残存していることに容易に気づくだろう。仮にそれを書籍のかたちに集約するとしたら、それは世界中のどんな百科事典より重厚で、文字は世界中のどんな本よりも小さく詰め込まれているだろう。そのページが新たに加わる時は二度と訪れないとしても、永久にどんな本によりも濃密な書籍でありつづけるだろう。

自分の遺骸に温度の痕跡すら感じるから、どうしても生のイメージが抜けなくて、喪失から遠い世界に、この新鮮な骸を保存しておきたいと思った。先ほど自分が批判した空虚な弔い行為を、生きているぼくはどうしても実行したく思った。

この映像はそうして制作されたものである。緊張した面持ちで臨んだ入学式から今日の自らの死を味わうという鮮烈な経験まで、全ての記憶や感情を忘れないために。痕跡が薄れないうちに何もしなければいつかモノクロ化してしまうぼくたちの痕跡だけど、映像に残せば、その一部だけでもいつまでも有彩のままに保存できると信じて。

膨大すぎる記憶を20数分にまとめるわけだから、当然すべてを反映することはできていない。そのことも理解したうえで、ぼくたち製作者は記憶の雪崩の引き金になるという目標の達成のため、最後の最後までこだわりつづけた。だから、あなたの記憶のままの像が描写されていなくとも、きっとこの映像は記憶の小旅行へのチケットとなってくれると思う。

最後に、中高生活は明らかにぼくの原点だ。どんな祈りも、どんな言葉も届かない永久の死。新たな生命の萌芽。うまくいかないときには、沈殿する数多の記憶に溺れてみよう。ぜんまいを巻き直すみたいな気持ちで。


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