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姫路城を歩き、モノゴトの評価の変わる面白さについて考える(2024/05/24 #56)

先月、姫路城に行く機会がありました。
今回は桜の時期の姫路城周辺を歩いた記録を残すとともに、役目を終えたものが将来多くの人を惹きつける存在になるという「モノゴトに対する評価が変わる」面白さについて書いてみます。


姫路城の成り立ちと現在

姫路城のHPによると、1333年にその地に砦が造られたことが始まり。1601年に池田輝政が始めた改築により、現在の姿に近いものとなったということで、江戸時代以来続く城ということになります。

その後、2度の消失の危機(後述します)を乗り越え、1993年に世界遺産登録、2009年~15年の大規模修理を経て現在に至ります。

大規模修理時の様子
山口の五重塔もそうでしたが文化財の修理はこんな風に絵を書いた囲いをするのですねー
出典:日本の城と城下町②「姫路城」

入場者数は大規模修理後は概ね200万人で推移。コロナ禍を除くと外国人来場者数の比率が増えてきて、直近では3割が外国人になっているようです。
確かに駅に降り立った時点で、外国語が多数飛び交ってました。

姫路市統計資料から筆者作成

200万人ってどんなもんなの?というところですが、2019年のレジャー施設集客ランクによると、ランク3位のサンリオピューロランドが219万人ということなので、相当な集客数と言えます(ちなみに同1位はディズニーリゾートが3255万人と圧倒的・・・)

桜咲く姫路城を歩く

姫路駅を降り立つと、すでに道の先に姫路城の姿が見えてテンションが上がります。

駅前から望む姫路城
(撮ったのは帰路ですが笑)

城の手前にある大手前公園では花見してる人がチラホラ。こんな環境で花見できる地元も人はうらやましい!

大手前公園の桜とお城

城の周辺に張り巡らされているお濠では和船が運行しています。

お濠をゆく和船

ここまでは入場料も払わず見られてしまいます。日常の散歩コースにこういった場所が組み込める地元の人はうらやましい!(2度目)ただ、混雑に巻き込まれる点もあり良し悪しなのかもしれないですが。

入場料を払い城内に入っていきます(QR決済使えました!)。

風光明媚な門前とはうって変わり、城の中は随所に侵攻に備えた仕様が施されています。攻める際は狭い通路を通らざるを得ません

門から続く狭い通路

上の画像でも確認できますが、そういった敵を、銃で狙える覗き穴が壁の随所に施されています。

壁にあけられた穴の様子
内側は広いが外側は狭い

城の中にも武具をかけておく場所が随所に設置されています。

城の廊下
手前に銃がかかっています

色々な仕掛けを面白く見ていきながら、城の階段を登っていきます(なかなか急勾配でお年寄りは大変そう)。
そして天守閣にたどり着くと姫路市街を360度見晴らす光景が!

天守閣から南側
駅や、さらに南の工業地帯も見晴らせます

見えるものは違えど、400年前のお殿様もこの目線で城外を見晴らしていたのでしょうね。

天守閣を下から望む

2度におよぶ消失の危機

さて、そのような「いくさ仕様」の姫路城でしたが、江戸時代の間は本領を発揮する機会はありませんでした。明治維新に際して、姫路城は幕府軍ということで攻められたものの無血開城します。

明治政府の時代となった後の1873年、いわゆる「廃城令」が出され陸軍が軍用として使用する城と、大蔵省に引渡し売却用財産として処分する城とに区分され、ここで各地にあった城の多くが廃城となりました。

姫路城は軍用として使用されることとなり、いくつかの建物が壊され、そこに陸軍が駐屯するように。そのうえで1874年に姫路城が競売にかけられ23円50銭(現在の価値で約10万円!)で落札されてしまったという話も伝えられています。

結果的にはこの入札は取りやめになったそうですが、この当時の姫路城は長年手入れがされておらずボロボロ。いつ取り壊されるか分からないという状況の中、城郭の壮大さや美観に感銘を受けた一部の外国人公使や新政府高官から保存を訴える声が起こります。

これを受けた陸軍大佐の中村重遠(しげとお)が政府から予算を獲得し修繕を行います。以降、市民を巻き込んだ姫路城保存の動きが大きくなり、1910年に「明治の大修理」が行われたのでした。

1度目の損失の危機を乗り越えた姫路城に、次なる危機がやってきます。
それは第二次世界大戦。
この頃には国宝にも指定されており保存すべき対象として認知されていましたが、真っ白な姫路城は、真っ先に敵の標的にされるのではという議論がなされ「黒い網を被せる」という対策が取られたそうです。

1945年7月に姫路市も大空襲を受けるのですが、この対策が奏功したのか、姫路城にはいくつか焼夷弾が落とされるものの城郭建造物は奇跡的に戦災を免れたのでした。

不要な存在が、貴重な存在に変貌することがある!

明治の世の中になった時点で、城郭は不要の存在どころか、維持費がかかる面倒な存在になりました。
ところがそこから150年経った現在、城下町に収入をもたらす貴重な存在になり変わっている(入場料は1,000円でしたので、200万人で掛けると年間20億円となります)。この移り変わりはとても面白いと感じます。

もちろん収入源としてのみならず、街の人のシンボルになっているとも思います、普通に路地からも見えるのですもんね。

ほかの城が打ち壊されていく中で、生き残り続けたからこそ、独自の存在になっている。これって、人の生き方にも通ずる気がしますね。

他の人が見向きもしない道をあえて行く。
その道を選んだときは「時代とズレたやつ」と言われるかもしれないですが、ほかの人が見向きもしない結果、独自の存在になっていく。そういう先人が沢山いるように思います。

姫路城の保存を訴えかけた人達も、将来このようになる等思ってもいなかったと思いますが、「時代の流れ」に迎合せず「美しいもの・心惹かれるもの」を残すべきだと思ったのは間違いないはずです。

現代にも「時代の流れ」なるものはあるかと思いますが、イチ個人としては自分の心惹かれるものを大事に過ごしていきたい。
姫路城を歩き、その歴史を調べてみたことで、そんなことを考えてみたのでした。

今回は以上です。
(帰りの新幹線に、御座候(関東で言えば今川焼)を買い込んで食べましたがメチャクチャ美味しかったのも思い出の1つです笑)

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