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【エッセイ】非日常のなかで思い返すこと

 私の通っていた高校は熱心なミッションスクール(キリスト教の学校)だった。
帰りのHRでは終礼があり、毎日一人ずつ生徒が自分で読む聖書の箇所を決め、その聖書に書かれた言葉に合った自分のエピソードや、初めてその言葉に触れた時に思ったことなどを話す時間なのだが、クラスメイトの意外な一面を知ることができたりして私は好きな時間だった。
正直なところ、誰がどんな話をしたかとか自分がどんな話をしたかといった細かいことは覚えていない。だが、何度も思い返す終礼がひとつだけある。

「私にはみんなが話しているようなエピソードはありません。」

彼女の終礼はそんな言葉ではじまったと記憶している。

「終礼の番が回ってきて、何を話そうか考えた時に私にはみんなが話しているようなことはないなって思いました。でも、何もないこと、それはそれで幸せなことなんじゃないかなって気づきました。お祈りします。」

以上、なんてシンプルで重い言葉なのだろう。
先ほども書いた通り、生徒が終礼で話すことは自分のエピソードや聖書の感想などがほとんどで、更に、当時の私たちは高校生だ。自分のことを途中でからかわれたりせずに、また自分で恥ずかしくなってはぐらかしたりせずに、多くのクラスメイトの前で素直に話せる機会は、少なくとも私にとっては貴重で普段言えないことを吐き出せる場だった。ここぞとばかりに終礼ノートいっぱいに話す内容を書いている人は私だけではなかったと思う。また、どこかで自分のオリジナルを出したい欲も私にはあった。
私の終礼の番は彼女の次、つまり翌日で、だから尚更ズシンときたのかもしれない。随分と前から話す内容を考えていたことがなんだかとても恥ずかしくなって、きっと彼女以上のインパクトある終礼は出来ないと思うと悔しかった。だがそんな感情も彼女の終礼は否定していないことに気づいた。
「何もないこと、それはそれで幸せなこと」
何かあっても何もなくてもいいんだ。そう感じて、彼女の終礼から話す内容を変えるべきか随分迷っていたが、私はそのまま私のエピソードを話すことにした。それが私にできる私だけの終礼だ。
そもそも終礼は自己顕示欲を満たす場ではないのだが(笑)。

心のどこかで非日常を望んでいるくせに、自分で望んだわけではない非日常に見舞われる度、いつも彼女の終礼を思い返す。何もない日常も幸せだと教えてくれた彼女が今もどこかで笑っていてくれたら私も幸せだ。
世界中で非日常が続いていますが少しでもはやく日常が戻りますようお祈り致します。

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