記憶にございません!—自分を変える

 映画『記憶にございません!』を視聴した。ごく簡単にあらすじを紹介すると、身勝手で横暴な総理大臣が市民からの投石により記憶を喪失し、これに伴って引き起こされるドタバタ喜劇である。詳細はレンタルか映画館(新型コロナはいまだ終息していないが)で視聴頂くとして、この映画の肝は、記憶を喪失してからの総理大臣が人格面・行動面で変わるところにある。

 もっとも、そこにはかなり紆余曲折がある。主人公の総理大臣は記憶喪失前の自分の人格や行動を知るにつけ、そこに嫌気がさし、「自分は変わる」と強く宣言する。ところがこれまでの彼の過去を知っている彼の家族はそれを本気にしない。いや映画の中に限らず、現実社会に生きる私達一人一人もそのことをよく知っている。人はなかなか変われない、ということを、それもとりわけ大人はそうであることを。

 子どもや若者は人生軸において、まだ知識や経験が大人に比べて圧倒的に少ない。がその分、十分な可塑性・柔軟性に富むと言える。すなわち、まだまだ成長の余地がある存在として社会からもそのように期待されている。だから世間的には、まず教育といったら子どもや若者をその対象と見なす。もちろん生涯教育という言葉もあるように、実際働きながらあるいは定年後に学び直すリカレント教育もようやく社会的にも認められつつある。だが少なくとも大人に対する教育は、子どもに対するそれに対しては明らかにサブ的な位置付けをされていることも事実である。そして少なくとも、子どもに比べてその可塑性、柔軟性、そして成長可能性について圧倒的に低く見積もられているのも事実だし、この事実を無視することはできない。

 それに引き換え大人が子どもに対して圧倒的に優位に所持している最大の武器は、それまでに身につけてきた知識や技能であったり、経験それ自体であったりする。しかしこのことはやはりまた、成長の余地が少なくなっていることを意味している。少なくとも、子ども程には変わることがそれほど期待されない存在といっていい。むしろ簡単に変われるようであっては、むしろその方が心配と言ってもいいぐらいだ。社会が大人に期待するものはまさにその安定性であって、そんな容易にぐらつきうるアイデンティティをもった人物を、社会は信用できる大人として認めない。逆に、ある程度人間としていくらかは完成に近づいている存在となることを期待されている。むしろそうでないとまずいわけである。変わることよりも、変わらないことを期待される存在—それが大人というものなのだ。

 そんな大人が変わりたい、やり直したいと思ったらどうなるか。世間では様々な自己啓発書が世に溢れており、その読者のほとんどが大人か、あるいは大人と子どもとの境界線上にいる若者といっていいだろう。そうした中で切実に自分を変えたいと思っているのは、若い大人であろうとそうでない大人であろうと、少なくともある程度これまでの自分や自分の過去に後悔している存在と推定できる。つまりある程度の歴史とその記憶を背負った存在というわけだ。そうした過去の歴史と記憶あるいは様々な知識や経験と引き換えに、その成長可能性が少なく期待されている存在が、自分を変える、やり直すということがどれだけ困難なことかは容易に想像できる。その中でもとりわけ成長を阻害する障害となることの一つは、そうした過去の知識や経験、歴史や記憶とともに身につけてきた信念や価値観、そして偏見や、あらゆるしがらみ・関係性である。これらによってもまた、大人が変わることを困難にするわけである。

 そうした観点でこの映画を改めて眺めてみると、まさにこうした長年培いこさえてきた様々なしがらみや偏見、価値観を自分のものにしている大人が変わるためには、もはやこうした「記憶喪失」といった荒療治しかないように思える。実際、こうしたさまざまなしがらみや価値観、そして過去の記憶を持たない自由な立場であったからこそ、主人公の総理大臣は自分を変えることができたとも言える。これまでの自分の過去のみならず、あるべき姿や言動など、社会から期待される役割から自由であったからこそ、自分を変えることができたわけである。

 そうするとこれは、あくまで映画の中の世界・フィクションの世界のことであって、今日も明日も生きなければいけない私達大人にとっての一つの娯楽・慰め、あるいは明日への清涼剤だけでしかないのだろうか。そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。もし後者であるとするならば、私達大人になにができるのか。

 つまるところそれは、大人であることの呪縛から自らを解き放つことでしかないのではないか。時に大人としての役割を脱ぎ捨てること。時に期待を裏切ってでも、自分の想いに忠実になること。何も知らない無知な子どものようになってみること。あるいはまた、昨日のことなど何も知らないかのようにふるまうこと、そう時に「記憶喪失」してしまうことだってありではないか。もっとも、大人のそれは酒の席でのことが多いとも言えるが、そんな酔った状態でしかタガを外せないのもつまらない。むしろしらふの席でこそ、大いにそのタガを外せる勇気をおそらく持ちたいと望む大人は意外と多いのではないか。まるで記憶喪失したかのような朝令暮改の精神だって、それが自己成長につながるのであれば大いにすればいい。もちろん、反社会的な行動は言うに及ばず、その後の自分の言動の結果責任をちゃんと引き受ける覚悟があってが前提ではあるが。でも、そうした機会・きっかけはあるのか。それはいつなのか。

 子どもには自らの成長に伴う多くの節目や儀式が存在する。お七夜、お宮参り、七五三、小学校入学・卒業、中学校入学・卒業、高校入学・卒業あるいは中退、それ以外の選択肢......細かく言えばこれ以外にいくらだってある。いや、大人にも子どもほどではないにせよ、そうした節目はそれなりに存在する。成人式、就職あるいは転職、結婚あるいは離婚、出産、初孫、親しい人との死別、退職・引退......。ではそうした人生の節目でないと大人は、いや人は変われないのか。変わってはいけないのか。

 映画の主人公は、子ども時代の内気な自分を変えるきっかけとしてボールが頭にぶつかった時を一つの契機にしており、そして総理大臣という大人になった時でもまた、投石をその変わるきっかけにしている。そう、人が変わるのはいつだっていいのである。その気になればタイミングなんて明日でも今この瞬間であってもいつでもいいのである。確かに、その変わる力が大きな節目や儀式ほどには大きな引力を持ちづらいかもしれない。そうであるならば、自分で大きな引力を引き起こせばいいだけのことである。映画のような偶然による記憶喪失になど陥らなくても、自ら昨日までの自分を忘れたかのように生きることはできる。どんなきっかけや出来事でもいい。自分の中でその意味付けさえできていればなんでもいい。意味づけが難しければ、とにかく理屈はどうあれ行動を変えるだけでもいい。昔からよくある手法として挙げられることの多い旅に出る、でもいいし、あるいはまたよく言われるように、住む環境を変える、付き合う人間を変えるでもいい。なんだったら、いつも着る服の左右の順番でもいい。長年そうしたことを習慣としている人にとっては、その小さな行動が大きな変化だったりする。そうした意味では、大人はいや人は、変わることをもっと敷居を低いものとすること、むしろ変わり続けることが自然なものとするぐらいで丁度いいのかもしれない。

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