過去との和解ー成長のために必要なこと

さて先週に引き続き、『35歳の少女』を視聴した。
事故によって25年間眠り続けた精神年齢が「10歳」の少女。そんな彼女に対して母親は、着るものから食べるものまであらゆる面であくまで「35歳」としての生活スタイルを要求する。だが10歳のまま時間が止まっている彼女は、そこに違和感しか感じない。

そんな中、彼女の初恋かつ元同級生である35歳の男性に会いに行く。彼は彼の方で、彼女に暴言を吐き傷つけてしまった負い目もあってしばらく彼女に同行することになる。だがここでもまた、ちょっとしたことで心にもない言葉を彼女に吐いてしまう。するとあろうことか、彼女は自分自身が25年間眠り続ける元凶となった自転車に乗り、当時と同じ坂道で今度は自殺を試みるのである。

結局彼女はブレーキを踏んでしまい自殺ができなかったのであるが、彼女は自分が望みもしないのに(ちなみに彼女の名前は望実である)このような境遇になってしまったことを涙ながらに訴えかける。これに対して彼は彼女にもう好きなようにやればいい、ゆっくりと成長していけばいいと諭す。すると彼女は「10歳」としてのびのびとふるまう。

10歳の子どもが望んでもおかしくないお子様ランチを食べ、およそ35際には似つかわしくない服を選び、そして子どもと一緒にボール遊びに興じる。当然これらの行動に対してまわりは眉をひそめたりこそこそ話をする。だが、その35歳"らしくなく"思いっきり楽しむ様子は、私達大人に心から「遊ぶ」「楽しむ」ことの復権を思い起こさせる。仕事と切り離されたプライベートの遊ぶ場においてすら、純粋に心から遊べなくなっている事実。休息としての手段化はまだいい方で、SNSの発信等の承認欲求を満たすための遊びはもはや、キラキラどころかギラギラした欲求以外の何物でもなくなってしまっている。ありたい理想の姿に動機づけられた疑似欲求に突き動かされたそれは、遊びそのものを目的とする子どものそれには遠く及ばないことを。

しかしながら、大人がそうした純粋な遊びに興じることが難しくなっているのは、すでにそうしたことを卒業しているからこそと言えるのも事実だろう。そういった意味では、「35歳」の少女は、まだ「10歳」としての遊びの儀式を卒業していないからこそ、本気で本当の子どもと一緒に純粋に遊べるに過ぎないとも言えるかもしれない。元同級生の彼がドラマの中で指摘したように、35歳の「少女」が35歳の「大人」になるためには、ゆっくりと時間をかけて大人へと成熟していくためには、十分に遊ぶという体験に限らず、様々なことに触れ合い、見聞きし、経験するという過程がどうしても必要になってくる。そうした意味では、昨今の教育問題の一端は、知識・情報偏重、あるいは経験不足ないし特定の経験偏重による考え方・感性の偏りにあるのかもしれない。

もちろんこれは子どもの教育に限らず、大人にとっても自分の人間性を広め深めるために必要な要素であるだろう。同時にまた、これまでの人生経験を踏まえた上でなお、大きな変革、飛躍を望む者にとってはこれに加えて、「自己受容」といったものが欠かせなくなってくる。つまり、過去の自分との和解である。

ドラマの中の少女もまた、「10歳」なりに「35歳」の大人になるべく、思うようにならなかった運命を受け止め、成長に向かって歩みだす。母親、父親、妹を呼び出すと、事故の原因となった豆腐を自ら買ってきてそれを家族に差し出す。そして事故の責任をそれを自ら責める母・父・妹のせいにせず、自分の責任として引き受ける。そこには、家族との和解よりもずっと、過去の自分との和解が大きなテーマとしてクローズアップされる。人は、過去の自分を受け入れた上でようやく大人へと成長していける一そうした余韻を残しながらドラマは次回へと持ち越される。

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