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雨のやまない夜に

昼から降り出した雨が夕方になると大きな音を立てるようになり、私は今夜の彼との約束をどうするか考えはじめていた。

ふたりで最近開店したラーメン屋に行く話だったが、窓を見るとすでに真っ暗、白い線のように落ちる雨の勢いは強かった。

雨は嫌だ。

傘なんか邪魔だし、クルマに乗る時は絶対に濡れるし、車内に雫を持ち込むのも気が滅入るからだ。

今夜も私のクルマで出かける予定で、彼の家まで迎えに行くことになっていた。

ここ数ヶ月、彼と出かけるときは私の軽自動車を駆る。

彼が自分のワゴンを出したくないのではない、単に私が助手席に座るのを避けたいからだ。

彼の運転はとても優しく、急ブレーキなどまず体験したことがない。
信号待ちで止まるときも、駐車場にクルマを入れるときも、丁寧にハンドルを切って揺れないようにしているのがわかる。

仕事や趣味の話をしながら、笑ったり文句を言い合ったり、たまに沈黙する隙間も苦痛でなく、彼と過ごす時間が私は好きだった。

だが、彼に気を許しているぶん油断していることも事実で、窓の外を流れる明かりをぼんやりと眺める穏やかさは、体の力を抜けさせる。

仕事で疲れている日など、レストランの帰り道で心地よい振動にふと眠気を誘われることもあった。

「着いたよ」
と控えめな声と力で腕を揺すられ、はっと目が覚めたときの恥ずかしさといったらなかった。

リラックスしすぎる。
それを実感したとき、妙なバツの悪さが生まれた。

彼は友達だ。
恋愛感情を持つには、9年の「何も起こらなかった期間」があまりにも長く、今さら”そんな気分”にはなれなかった。

私はバツイチで離婚以来ずっと恋人はいなかったが、彼は一人だけ女性と付き合っており、時間は半年ほど、その間は流石にふたりきりで会うのは暗黙の了解で避けていた。
彼女と別れたと報告をもらい、また何となくふたりで会うようになったが、「別の女性のものだった過去」は少しの溝を生んでいた。

当たり前だった。
男と女なのだ。
助手席にふたたび身を沈めたとき、”自分以外の女性がここにいた”事実が蘇ると、同じ女としてわずかな余韻が膝下にまとわりついた。

彼の運転は以前と変わらずこちらに配慮した丁寧さがあり、いつの間にかパンプスの靴裏に沈んでいた余韻は消えていったが、代わりに顔を出したのがリラックスしすぎる自分だった。

”彼が戻ってきた”。

それは安堵だった。

「昔と変わらず」彼が当然のように迎えに来てくれることに、ほっとしながら心の裏側では距離ができたのを感じていた。

離れている。
友情から。

それを自覚したときから、彼の送迎に甘えるのをやめた。
「いつも運転してもらっているから、これからは私がクルマを出すよ」
そう言うと、彼は戸惑ったように「え、いいよ悪いよ」と返した。
そこには”女性に運転させるなんて”という気遣いが感じられた。
「ううん、あなたもたまには楽をしてよ。私も運転したいから大丈夫」
助手席であなたの好きな洋楽を聴いていてよ。
軽い調子で続けたが、それでも彼は「別に楽をしたいとは思わないから」と食い下がった。

わかっている。
彼は私が自分のクルマをいたく気に入っていて、スマートフォンの音楽アプリに入れてあるふたりの好きな曲を流し、ドライブに出かけたときは星が見える駐車場でゆったりと過ごす時間が好きなことを、知っているのだ。

私の軽自動車になると男性の彼には狭い上に、上手いとは決して言えない私の運転にハラハラし、長距離を走ることは難しくなる。

手放したくないのだ。
これまでのふたりを。

「俺は運転したいんだけど」
「ありがとう、わかってるけど、たまには私も」

意見の衝突があってもたいていは冷静に話し合えていたので、今回も電話で世間話のついでのように出してしまったが、珍しく彼は抵抗した。

「俺の運転が嫌なら言って。直すから」
「それはない!」

思わず大きな声で否定したら、彼が口をつぐむ気配がした。

「気を使ってくれてありがとう。
でも、もし私のクルマでも大丈夫なら、送り迎えをさせて」

落ち着いてそう言うと、スマートフォン越しに「わかった」と低い声が流れてきて、そのまま次の約束に話は移っていった。

ああ、困らせた。
こんな、流れを変えるような出来事は、今までなかったのに。

私が。
これ以上離れたくないせいで。

彼は大丈夫だろうか。
私のクルマに乗ってくれるだろうか。
もし嫌になられたら。
疲れさせるのなら、すぐ「元の状態」に戻そう。
不穏な音を立てる心臓の動悸を感じながら、勝手な自分を恥じた。

だが、彼との時間はそれからも順調に続いた。
最初こそ気まずそうに助手席で肩をすくめていた彼だったが、3回目あたりから足を投げ出して深く座るようになったのを、視界の端っこで捉えていた。

力の抜けた彼の膝下は。
記憶に残るほど鮮やかに”誰とも被っていなかった”。


私が運転するようになってから、もう3ヶ月ほどになる。
彼との時間は相変わらず楽しくて、カジュアルなラーメン屋から郊外の洒落たレストランまで、いろいろなお店に足を向けていた。
早い時間に会えたら、食後に夜景を見にいく習慣も変わらなかった。
自動販売機のある路肩に停車して、彼が二人分の缶コーヒーを買うために背をかがめてドアを開けるのも、見慣れてきた。

ほっとしていた。
これでいいと。

彼は私の運転で居眠りなどしない。
私のスマートフォンを手にしてアプリを見ながら、「あ、もうダウンロードしてる」とか言いながら嬉しそうに指を滑らせる。
流れてくる曲を首を揺らしながら聴き入る。

「疲れてない?」
「いつでも運転代わるから」
「ガソリンはある?」

こんな言葉は新鮮で、結局は彼に気遣われる側になることが変わらない自分を実感したが、ひどく楽しかった。

楽しかったのだ。
それは友情を守り続ける決意だった。


「もしもし、今日だけど」

結局、出かける1時間前に彼に電話した。
今夜の予定はキャンセルして、また別の日にしないかという提案をしたかった。

ギリギリになって申し訳ないと思ったが、仕方なかった。

「うん」

彼はいつもの調子で返してきた。
手で何かを掴むような音が僅かに聞こえた。

「こんなお天気だし、やめにして週末にしない?」
「今から出ても大丈夫?」

私の言葉が終わる前に、彼が言葉を被せてきた。

こんなことは滅多にない。

「え?」

思わず聞き返すと、一呼吸置いてから

「今から迎えに行くから」

と、落ち着いた声色が流れてきた。

「‥‥‥」

心臓がバクンと跳ねた。

なんで。
今日は、雨だから。

「いや、天気が」

まさかこうなるとは思わず、本気で焦りながら答えると

「俺は行きたいんだ」

きっぱりとした声で、彼が言った。

「‥‥‥」

今日はクルマを出したくない。
あなたに嫌な思いをさせたくない。

言えない。

「雨の日の運転は苦手って言ってたよね?」

彼の調子はいつも通りだ。

「‥‥‥」

言えない。

会いたいと。

「今日は俺に迎えに行かせて」

声に、少しだけ窮屈さが見えた。

優しい響き。それは変わらないのに、彼は自分の提案に不安を覚えていた。

私が。
断るかもしれないから。

「ありがとう。いいの?」

雰囲気が変わろうとしていた。
それが怖くて、慌てて言った。

「うん」

安心したようなため息が聞こえた。

「会いたくて」


胸が詰まるような重い衝撃は、困惑でも嫌悪でもない。

歓喜だった。


「あ、ええと」
自分が何を言ったのか気づいたのか、今度は彼が慌てたように声を上げた。

ふたたび金属音がして、彼がクルマの鍵を握っているのだと気がついた。

「もう行ってもいい?」

はにかんだような、ちょっと歪んだ響き。

ああ。
私も会いたい。

「うん。
待ってる」

そう言って通話は終わった。


我に返り、急いで準備した。
メイクは大丈夫、バッグには折りたたみ傘がある。
動きやすいようにジーンズ、寒いかもしれないからニットの上着も出す。

マスクをするので緩んだ口元は見られないだろうけど。
鏡を見てチークを入れ直すとき、チップを持つ指が震えていることに気づいた。

心臓が痛い。
会いたい。
彼に会いたい。
助手席に乗りたい。
彼の好きな曲を流してあげたい。


戻れないのだ、と。
その実感は絶望でもあった。
動かしてしまった。
もう戻れない。

揺れる指先を見つめながら気が付く。
ふたりでやったことなのだ。
とても自然に。

会いたいから会う。

シンプルで、何よりも確かな気持ち。

シンプルで、何よりも強い、「あなたを好きな自分」。


雨はまだまだやむ気配はなく、強い音で降り続いていた。
きっと、ふたりとも濡れてしまうけれど。

もう、煩わしくはない。


END

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以前、友人から聞いた話がエモかったので、勝手に補足して(盛って)ストーリーにしてみた。
「9年」「元カノ」「膝下の居心地の悪さ」「見ない」「食い下がる」「膝下の新鮮さ」「鍵を握る音」「会いたい」「心臓が痛い」「指の震え」「絶望」
葛藤の果てに、二人で”そう動いた”んだからそれが正解よ、と。

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