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「自分は理解させてもらう側」と思う人の誤算

すれ違いから諍いになり、話し合うものの相手が自分の思いどおりの反応をせず怒りと疲れで投げ出したくなり、伝家の宝刀のように「あなたが理解できない」と己に酔った姿を平気で出してくる人を見ていて思うんだけど、「自分は理解させてもらう側なのだ」と思い込む人って本当に胆力がない。

コミュニケーションをみずから放棄しておいて「理解させないそっちが悪い」としたがるが、「理解する努力をした自分」は一切見せないし「具体的にどこが理解できないのか」も言わない、「理解できない自分」を放置できるのがすごいなと思う。

こういう話は依存体質の人を相手にしている男女からよく聴くことで、「自分の期待通りの展開にならないとすぐに出る」が特徴にある。
ある男性は「喧嘩になると彼女はすぐ俺の気持ちが理解できないと言って話し合いをやめる」と言い、別の女性は「片思い中の人だけどこっちが自分の気持ちを受け入れないとわかると私のことが理解できないと言って電話を切る」と悩んでいた。
これを言えば「自分は理解させてもらえない被害者」になれるという思い込みがよく見える。
己がそうやって相手の気持ちを拒絶していることはまったく考えない。
見ているのは自分の感情であり、「理解」の意味が「自分がすることではなく相手がそうできるように尽くすもの」なのだなと感じる。

そういう男女がどうなるか、私が知る限り幸せな交際が叶ったケースはなく、後味の悪い終わりで疎遠になる。
「理解させてもらえない自分」に酔った結果、欲しい愛情は手に入らず相手は離れていく結末を迎えても、「あなたが理解できない」と口にする側はその自分に違和感を覚えないのだろうなと思う。

依存体質の人が望む関係は、そもそも「自分の在り方をすべて認める」が根底にあってすれ違いを許さない。
己の振る舞いを相手が責めようものなら「十年前の相手のおかしさを今持ち出して責める」ような男性も実際に知っているが、”そのときの自分は何をしたか”は絶対に言わない。
ひたすら「アンタは昔からこうだ」と相手の咎を前に出して己の今の有り様からは逃げる。
それしかないんだよね、痛みと向き合いたくないから何とかして「相手が悪い」にできる部分を目を皿のようにして探す。

逃避と攻撃。
依存体質の人は他人と衝突すると自分の振る舞いを振り返ることはせず”まず”相手を責める。これはすべてに共通している。
攻撃すれば自分は己のしたことから目をそらしていられる。考えずに済む。
強い言葉で相手を傷つけ貶め、それでも辛抱強く自分と向き合おうと言葉を重ねるのを見れば今度は「あなたが理解できない」と言って逃げ出す。
関係を常に自分の側から見ることしかできず、相手の気持ちは二の次なんだよ、何においても”まず自分が認められる(救われる)”が依存体質の人の在り方で、己と相手を並べて対等に考えることができない。

その弱さをまた相手のせいにする、「理解させてもらえない自分は被害者」であって、「こっちのことが好きなら理解させるべき」を当たり前のように出す。
だからこんな言葉を平気で口にできるのであって、これ、逆になったら当人は嫌味と攻撃をさらに重ねるからね、「理解できないそっちが悪い」と絶対に言うんだよ。自分が言われるのは許さないんだけどね。

こういう矛盾を当然のように抱える人の話を聴いていると、他人と関わるときの自我が不安定なんだろうなと思う。
己の機嫌から体調まで、全部が相手次第なんだよね、ちょっとの喧嘩でもすぐ「頭が痛い」「食欲がない」と不調を伝えて”お前のせいだから何とかしろ”と暗に迫るのも本当によくあるパターンで、とにかく自分の在り方が相手で決まる。
何より怖いのがその自分に何の疑問も持たず普通に押し付けてくるところで、己の状態を相手に丸投げしている異常さがわからない、常に自分は「愛情をじゃぶじゃぶに受ける側」でいたいのだろうなと感じる。

そして衝突が起こると自我の不安定さはきっぱりと「攻撃」に切り替わる。
相手の気持ちを確認し、知り、己の気持ちを伝えて歩み寄れる部分を探す。仲直りして「これからは」と新しい在り方にともに安心する。こんな場面を絶対に迎えられないのが依存体質の人で、喧嘩は己のアイデンティティが崩れるような重大な「危機」であり、とにかく己の心を守ること、つい数分前まで「好きだ」と口にしていた相手はものの一瞬で「敵」になる。
この極端さが依存体質の人の最大の弱さだなと感じるが(昔の私もこうだった)、当人は「いかにして傷を負わずこの場を切り抜けるか」に必死で、すでに相手はそこにいないよなあといつも思う。

相手を「自分と等しく尊厳の在る人間」と自覚していれば、まず罵倒や人格否定なんてできないんだよ。
同じ言葉を自分が言われたら激怒してキレ散らかすだろうに、己は相手に言えるんだよね、人間と思っていないからさ。
見ているのは怒りや悲しみを「抱えさせられた自分」であって、それを”自分の意思で”解決する気がない、元の自分を取り戻すには相手の”全面降伏”だけが道であって、それを見ない限り口汚く罵ることをやめられない。

そしてこういう自分を責められることをまた嫌う、「そうさせるそっちが悪い」「そっちだってこんなことをしただろう」と必ず己の言動の理由をこちらに持ってくる。
「それ以外の対応」はいつでも複数あるのに、「攻撃する」しか選ばないんだよね、たとえば「相手の気持ちを聴く」のボタンを押すと次は「それを受け止める自分」が必要になるからその労力から逃げる、攻撃に徹していれば相手が負けて自分に屈するだろう、その結末こそ依存体質の人にとっては正解で、愛情の証なんだよ。

先日も知人から「衝突すると理解を放棄してひたすら自分の気持ちだけぶつけてくる男性」の話を聴いて一緒にため息をついたが、男女関係なく「相手の気持ちを聴けない」人の”切羽詰まった感”はこちらに「受け入れる」の選択肢だけをぎゅうぎゅうに押し付けてくるよなあと。

「あなたが理解できない」と己に酔う人が見落としているのは、「自分にはあなたを理解する能力がありません」と告白しているのと同じってことで、自分の価値を自分で落としてるんだよね。

「こう言えば相手は怯んでこちらに理解してもらうために尽くしてくるだろう」なんて誤算でしかなくて、それが叶ったこともあるだろうが、たいていは相手は撤退するんだよね、こちらを理解する能力のない人間を好きでいても仕方ないからさ。
そこまで愛情は消えるんだよ、それを誘う言葉が「あなたが理解できない」なのだと気づかないんだろうなあと。

「自分は理解させてもらう側」だという思い込みは傲慢だよねとその知人は言っていたが、そう受け取るのが言われた側の現実で、「ともに理解する」が叶わない関係に健全な精神の人は身を置かないと改めて思った。

逃避と攻撃を見せておいて「愛せ」「満たせ」と迫る自己矛盾は、依存体質の人にとっては己の価値が相手次第が当然だから違和感はない。
かつての私がこうだったからこそ思うが、「傷つけられた!だからお前はその責任を取れ!愛せ!」となるのは、”自分については一切の反省をしない”のは、ありのままで愛されることこそ愛情の”正しい”姿であって、それを叶えるのが相手の仕事、自分は相手や関係について理解して尽くす力がないのが真実なんだよね。
その力は相手によって与えられるものではなくみずからが掴むもの、それがあるから相手は「理解してもらえる」安心を覚える、自分も同じく「教えて」と言われたら本心を言えるでしょと。
痛みを、攻撃ではなく「知る」で解決していく姿勢が自立した愛情じゃないのと思う。
こう、「愛してほしければ先に愛情を見せろ」が常につきまとうのが依存体質の人なんだけど、その強迫性の底にあるのは飢餓感なんだよね、”愛情じゃぶじゃぶ”を経験したい、安らぎたい、安心したい、全部自分の事情。
飢えた心の解消を相手に求めるからいつまで経っても満たされないうえにさらに飢える、その痛みが相手をあっけなく「敵」にできる極端さを生む、人とのつながりに本当に安らぎたければそうなる現実をみずから作る力がいるんだよね。

この「そうなる現実をみずから作る」に注目すると、どうしても自分を好きになるって作業が必須で、何でかって

己が作り上げるからこそ揺るがない安定と安堵が生まれる

からで、他人に左右されない強い土台(自尊心)は「これでいい」と思える自分、自力で得たものだからこそ自信になる、安らぐには「その自分」を受け入れる器がいるでしょ。
自分への信頼ほど自我をまっすぐ立てるものはない。

自分を好きじゃない人が他人にも好かれないのは、この土台を作る作業を相手の役目にするからで、しかも期待も理想もあるから「100で完成させる」ことを愛情の証にする姿勢が敬遠されるんだよね。

だって自分はしないんでしょ、相手の土台(自尊心)を作り上げる努力はしないんでしょ、そんなことを求められたら「できない」って逃げ出すでしょ、「それは愛情じゃない」って怒りでもって拒絶するんでしょ。

関係は対等なんだよ、どんなに嫌がっても対等でしか存在できないのが他人で、それはお互いさま、自分がしないことを相手に求めてもそれを叶える義務も義理も相手は負わないんだよ、自分が負わないのと等しくね。

だから自分で何とかするしかない、土台(自尊心)は己で愛して大事にする姿勢が人と接するときも当たり前に「相手の土台を等しく大事にする」を叶える、だから愛しあえる、大事にしてもらえる、うまくいくカップルや夫婦は確実にこれが見える。

「自分は理解させてもらう側」でいたがる限り、「理解する能力のない自分」からも逃げられない。
「好きならこっちが理解できるよう尽くすはず」の誤算は、自分がしない以上は相手もしなくて当然って現実を目の当たりにしてやっと気がつく。

「理解」は相手の”おもてなし”で与えてもらうものではなく、みずから知っていこうとする姿勢があって初めてまっすぐな愛情と信頼につながるんだよって話。

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