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自信がないから他人との間に境界線を引けない

”世渡り”として他人との言い合いを避ける人

依存体質の人や自己愛の強い人が抱える焦燥に「自信がない」がある。

自分が持つ価値観や世界観、ものの考え方は好きなのだけど、みずから「よし」と思うことに満足せずそれを他人に認めてもらいたくなる人のことだ。

誰だって承認欲求は持っていて、それが満たされる場面があれば出したくなるだろう。
私もそうだ。

自分の世界で都合よく回せている事実を外に持ち出すとき、他人によってはそれはおかしいと否定してきたり別の価値観を押し付けてきたり、ショックを受けて鬱屈を覚えるのは避けられない。
だって別々の人間なんだから。
”自分だって”同じく他人の価値観や世界観にNOと言っているのかもしれないのだ。

そんな摩擦はどんな人間関係でも存在すると私は思っていて、違っていたときにわざわざ対立を選ぶのではなくそのまま置いておく、「そんな考え方もあるんだね」で済ませるのも世渡りかななんて頭に浮かぶ。

”世渡り”、自分の意見を正解にする相手を見るまで引かないのではなく、「相手の意見を否定しないことでお互いを立てる」ことができれば、その後も距離を取りながらいい面で関われるときを大事にしていけるのかななんて。

「100%完全にこちらに同意する相手」を見ないと満足しない、頷かない相手に威圧や罵倒で攻撃を仕掛けてねじ伏せるようなやり方は、自分の論に自信がない証拠なのだ。

他人からの同意や称賛がなくても自分の価値観が揺らぐことはなく、「その人の世界は自分とは違う」で置いておける人は実際に見るけれど、たいてい言葉が少なく慎重に選んでいる印象で、相手との境界線をはかっているのが見える。

「どこまで近づいていいか」「絶対に向けてはいけない言葉は何か」、「こちらの気持ちをどこまで見せても大丈夫か」、話しながら冷静に相手の人間性を探っているというか。

自分の価値観を否定されて平気なはずがなく、それを避けるためにも(自分を守るためにも)「強い言葉の応酬でネガティブな空気が生まれる前に引き上げるライン」を見極めているような。

他人の同意や賛同がほしい人ほど、「こうするべき」「こうあるべき」のきつめな言い方を避けない。
「それが大人の対応でしょ」みたいな表面の味付けも忘れない。
「これを否定するなんて非常識」が前提にあり、最初から他人の意見を受け入れる器など持っていないのだ。

それに正面から向き合っても理解しあえず疲弊するのが目に見えているから、「境界線を引ける人」はあえて相手をせず終わらせる道を選ぶ。

相手を否定せず、こちらも否定させない。
それが自分の価値観に自信を持つ人の振る舞いなのかなと、こんな言い合いの結果を「仕方ないよね」と笑って話す人を見ると考える。
相手を悪く言わず、貶めることもしない姿に自立した心を感じる。

「空気を読んで下がる人」の心のうち

私が尊敬する30代の友人は、空気を敏感に読む。
察するのがうまく、話が熱を帯びていく最中でも相手の心の状態を見逃さず「上手に引く」姿をよく見る。

ある瞬間にすっと言を下げて相手の主張を聴く一方に回るのは、相手が「歩み寄りたいのではなく、こちらを説き伏せて同意させることを目的にしている」とわかるからで、それに乗るのではなく「ひたすら語らせることで満足させて終わらせたい一心」なのだそうだ。

不毛だよね、どこまでも平行線の言い合いに相手はエスカレートするばかり、対話の内容が「どっちが正解かを競い合う」になると、前向きで健全な言葉はもう出ない。

そんな場面を何度も繰り返して、「黙る強さ」を手にしているのだろうなと思った。

自分の気持ちを無理に押し殺して同意することは絶対にしないが、「そうなんですね」と受け止める姿だけをひたすら見せ、その頑なさに相手が疲れて何とか話が終わる。
そんな場面も一緒に経験した。

同意はしないが否定もしない彼女を見れば、いずれ言葉が尽きたときにそこでもう熱は冷めるのだ。

他人から耳にする彼女の印象は「穏やか」「おとなしい」「話を聴いてくれる人」だが、その裏で「疲れたけど、縁を切るみたいな終わりじゃなくてよかった」と大きくため息をつきながらタバコをくわえている。

賢いなと思う、その辛抱は自分を守るためのものとわかっていて、相手との間に境界線を引く勇気があって、みずから価値を下げるような真似はしないのだ。

彼女は、私が到底たどりつけないような自愛と他人への尊重を持っているのだ。

そもそも他人のなかで存在感のある自分など求めていないのが彼女で、不要な軋轢を避けて「その後の」距離を取った付き合いを優先するのが、世渡り上手だなと思った。

他人との言い合いは、ストレスはもちろん溜まるし怒りや悲しみが残ることもあるだろう。
理解しあえないまま、嫌悪を抱えて終わる人だってやはりいる。

それをその相手に解消させるのではなく、自分で何とか乗り越えて前を向くのが自信のある人だ。

「空気を読んで下がる力」は、相手との距離感を自分でコントロールすること、屈折や鬱屈をなるべく避けてそれぞれの世界を守る結末を考える賢さなのだと、彼女を見ていると思う。

「相手の同意」によってしか成立しない自信

依存体質の人や自己愛の強い人は、とにかく自分の感情こそ正解でそれを相手は受け入れるべきと本当に思っているが、この「相手の同意によってしか成立しない自分への自信」ほど恐ろしいものはないと思う。

本当に自信があれば、自分と違う相手を見てもそれを責めようとは思わない。
違うことで相手がこちらを責めてくればまた話は変わるが、ただ別の意見を持っているというだけで自分から攻撃するなんて衝動は生まれないのだ。

攻撃は焦りの証であり、感情のキャパシティの狭い人ほどすぐ威圧や罵倒に走る。
その姿がどれほど醜悪か想像できず、相手に与える印象もそれを第三者が見たときの評価も、衝動で動いている最中はまったく頭にない。
それが弱さであり、踏ん張れない心の脆さであり、みずから損を招く現実を見る。

口汚く相手を罵ったところで、客観的に見れば「わがまま」「自分勝手」「自己中心的」と思われる自分が残るのだ。
自己愛の強い人はイエスマンや手駒となる人をはべらせて懸命に「アイツひどいよね!?」と言い募っては被害者の面をかぶろうとするが、それが通用するのは半径1メートルの世界だけ、外に出れば”コントロールできない他人”が自分への評価を決めるのが現実なのだ。

だから「相手の同意によってしか成立しない自分への自信」で生きることは怖い。

他人とまともなコミュニケーションが取れない、人とのつながりを常に「自分を受け入れるかどうか」で見てしまい、少しでも拒否する姿が見えたらネガティブな攻撃に出てみずから評価を下げる言動に走る。
まともに情愛のあるやり取りが生まれない、「自分に生きる自信を与えるもの」と過大な役割を押し付けられた他人が愛してくれるはずはないのだ。

自信のない人が孤立するのは、自信がないからではなく他人に心を開く勇気を持てないからだ。

強い自己愛は他人から見れば「気取ったもの」でしかない、という現実を直視しない限り、求める「愛される自分」はいつまで経っても手に入らない。

他人を愛さない人が他人から愛されるはずがなく、自分を嫌いな人が他人から好かれる道理はないのだ。

人との間には境界線がある。

それを忘れず、自分とは違う人を見たときでも「そのままで置いておける」、自分の気持ちを押し付けない強さが自愛だと思う。
その姿が他人には信頼になり、楽しいコミュニケーションを思いつくのだと。

「自信がない」と言う割に他人との衝突を繰り返しては疎遠にされる終わりばかり手にする人は、相手に”すぐに向けてしまう”執着を、捨てる勇気がいるよねって話。

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