「優しい人」はみずから損を作り出す
人といるときに安らげない、ずっと緊張が抜けないし相手の態度に敏感になって疲れる、こういう話はSNSでもリアルでも見聞きするが、「優しい人」に多いんだよね、傍若無人に振る舞うなんてとんでもないし「他人は尊重するもの」って意識があるから気を使うエネルギーが大きくて心がぐったりしてしまう。
自己愛の強い人とか相手に依存している人は、一緒にいるときに必ず「気を使われる側」になるのを望む。
それが自分の価値であって、そうされるのが当然の”待遇”だと思うからだ。
だから要求が多い、行き先やお店など自分の満足度の高さを優先してそれを相手にも受け入れさせる。
タチが悪いのは、「ここでも大丈夫?」と確認はするが相手が別の提案をしたら不機嫌になるところで、テンションが変わるのは自分を優先しない相手に不満を覚えるから、対等と思っていれば相手の提案も出てきて当然って意識があるでしょ。
そこで話し合ってお互いに納得するものを決めるのではなく、自分の要求が通るよう理屈をこねたり相手の提案をくさしてみたり、不満の解消が目的の会話になるのが不毛だよなといつも思う。
「優しい人」は、こんな人間を見たら当然のように自分が折れる。
それが尊重であって、こちらの希望など価値がないと自分で決めてしまう。
”どんな有り様であっても”相手の要求は退けてはいけないもので、「こっちはどう?」なんて別の意見を口にするなんてのは、喧嘩を吹っ掛けるような「悪い自分」だと思ってしまうのだ。
それをまた相手は「私(俺)のことを大事にしてくれている」の実感にするんだけど、そこで置いてしまう、「じゃあ自分もあなたを大事にします」のサインをくれない。
こちらに対して無意識で「こうするのがこの人の当たり前」の感覚が育ち、感謝も尊重も自分がする側に立つことはしないのだ。
だから「優しい人」は疲れる、人の間にいて安らげる自分を見ることがない。
尽くすことはするが同等に尽くされる瞬間はない、こちらが気遣わないと相手は機嫌を損ねてしまう、いろんな瞬間で「諦める」ことを当然にしてしまう。
いつしか約束そのものがストレスになる、自由に過ごす相手と”それに付き合う”自分の姿に息苦しさを覚える。
「優しい人」ほど罪悪感を抱きやすく、断りたいのが本音だけどそれをすると相手を不快にしてしまうと思うからできない。
そうやって無理を重ね、最後に心が壊れて「突然の未読スルー」「切羽詰まった理由を出していっさいの関わりを断る」みたいな極端な拒絶でもって相手と離れる終わりしか迎えられない。
「優しい人」は損をするよな、といつも思うが、相手を大事にしたいと思う意識の向け方に自分が入っていない。
「自分も一緒に楽しく過ごせる」のが理想で、そのためにはこちらの要求も素直に伝えて受け入れてもらうやり取りが必要で、ここを「わがまま」「自分勝手」だと思ってしまう。
自分の意思は”相手の気持ちより”低いもの、取るに足らないもの、大事にしなくてもいいもの。
だから平気で捨ててしまう、本当はAにしたいのに相手がBを望むからそれを「自分の正解」と変えてしまう、本当の要求はいつまで経っても満たされない。
だから疲れる、本音が叶わない関わりなんてストレスが溜まって当然で、でも「自我を出す」ことに抵抗を覚えるから自分を変えることができなくて苦しむのだ。
相手と自分を等しく大切だと思っていれば、自我や自意識を互いに伝えて受け止め合う関わりが健全な情愛を育てるのだと思う。
これができない、避けるのは、「優しい人」は他人の存在は重く受け止めるが自分の在り方については軽んじる心のクセがあるのかもなと思った。
自分の在り方を軽んじる、本心や本音に従った生き方をせず「相手の望むように存在する」のが正解なのだと思い込むのは危険だ。
「この人との関係は自分で選んだこと」「みずからこのつながりを決めた」と頭では理解している、選択した自分についてよしとしている。
じゃあどうして自分で決めたはずの関係に安心を見いだせないのか、相手の有り様ばかり気にして”それに合わせて”自分を変えていく現実に疲れてしまうのか。
そう在りたいのが本音じゃないからだよね。
最初の決断が間違っていなくても、その後の関わり方で自分の意思を引っ込めるから、相手はこちらの本心を見誤ったままその人の意思を出していく。
自己愛の強い人とか依存体質の人とはね、関わり方の不毛さに耐えられなくなっていずれ終わる。
終わるのが正解であって、自分を犠牲にしないと続かない関係なんて撤退して当然、そこでやっと自我と自意識は息をつける。
そこで「この自分では”私のために”ダメなのだ」と気がつけると、じゃあ自分はどんな在り方を望むのか、本音は何なのかって視点を持てるんだけどね。
自分を変えるきっかけは、ある誰かのためじゃなくて己が安らぐための一歩だと間違えない。
問題は、そういう「他人の好意や善意を自分への待遇だと勘違いしている人たち」ではなくて、「他人は対等な存在で自分と等しく大切にしたい」と思っている人との関係まで破綻することなんだよ。
相手は「受け止めてもらえる自分」は確かに見て感謝するが、こちらを「等しく受け止めたい」が叶う機会がないんだよ。合わせてもらう一方だからさ。
「優しい人」の、自分を受け入れてくれる姿に信頼を持つが相手は己について見せてくれない、「あなたの本音を聴かせてほしい」、こんな言葉をあえて出さないと知ることができないなんて、寂しいよね。
信用も信頼もされてないのだな、好意はあっても心を開いてもらえていないんだな、「自分の要求の何を叶えてもらってもこちらは叶える側になれない」ことの虚しさは、「優しい人」には想像もつかないのだろうなと思う。
対等を望む誠実な人ほど、「優しい人」が自分に向ける笑顔に不安を覚える。それはこの人の本心ではないとそのうち気がつく。
すれ違うからだ。
大きな衝突も不毛な駆け引きもない、会えば楽しいし「またね」と言い合ってその時間を終われるような間柄なのに、ふと出したこちらの好意を向こうはまったく別の方向で受け取っていたなんて目の当たりにすると、「理解されていない自分」を知ることになる。
「優しい人」はこの現実に打ちのめされる。
自分ではそう受け止めるのが”この人にとっての”正解だろうと思っていたのに、相手の気持ちは正反対だったと知って恥ずかしくなる、気まずさを覚える。
そうやって自信をなくす、意図せず相手を傷つけた場面に身を置けば「こんな自分はふさわしくない」と価値を下げる。
自分の在り方を軽んじると、結局は相手にも痛みを負わせる。情愛が育っているほど、その傷は深くなる。
「優しい人」はみずから損を作り出す。
だからね、自我も自意識も、「出せる自分が正解なのだ」が現実なんだよ。
対等なんて目に見えないものの感覚はわかりようがない、自分に自信がないのに相手と等しく並ぶなんておこがましくてできない、それよりも相手を受け入れられる自分のほうがよっぽど価値が高いんじゃないの?
この言葉はそのままじゃないけど、前回の記事で書いたセフレの男性を好きになった友人から出たものだ。
違う、あなたが受け入れているつもりの相手は実際はあなたに何も”知ってもらえていない”んだよ。
どうして「明日、会える?」って言われたときにこの人が中身を言わないうちからホテルへの誘いだと決めつけたんだい、そりゃ最初から「ご飯に行きたいから」って言うてくれちょったら誤解はなかったけれど、それでも、「会えるよ」ってまず返せていればあなたもその人も傷つかなかっただろ。
「会う目的はセックスで、断れば落胆させる」、それはあなたの決めつけだろう。
なあ、その男が本当にそう思っているのなら、「自分は食事のつもりで声をかけたけどホテルと勘違いしてくれたからそのまま乗っかってやれ」ってなるんじゃねえの。
わざわざ「食事したい」って訂正するのはどんな気持ちだと思う、その人はあなたのなかにどんな自分を見たと思う、ショックを受けたとか悲しかったとか、その人の状態を想像したかい。
あなたはその男の何を受け入れていたんだい。
「優しい人」にはここまで言わないとわからない。
尊重され、大事にされる自分から逃げなくてもいいのだと、相手の有り様を”ちゃんと見る”ことがそもそもの愛情なのだと、自分の本音を伝えることに怯えなくてもいいのだと、勇気を持てと。
恋愛であれ友情であれそれ以外であれ、相手のことを好きだと思うから関わりたい、接触を持ちたいと思う。
心の底にある「好き」「もっと知りたい」「もっと知ってほしい」「一緒にいたい」、こんな欲は、相手もこちらに好意があるなら等しく持つものなんだよね。
だからその自分を見せないことはかえって距離を作る、溝になる、「同じではないのだ」の実感を相手に与えてしまう。
好かれたければ好きになること、それは”その自分”を臆さず伝える勇気、がんばった姿が相手に届いて「俺も」となるんでしょ。
好かれている自分を感じる瞬間は必ずあるはずで、それなのに自分の意思は抑えて相手の有り様を受け入れるだけにするなんてのは、極端にいえば拒絶と同じだよ。
「一緒に」が叶うと実感できるから愛情は育つんでしょ。
「優しい人」はみずから損を作り出す。
人を大事に思うから優しくなれる、”その自分”を正しく大事にする、それが「伝える」ことなんじゃないのと。
勇気を持つってまあ難しいのはよくわかっているけれど、そのエネルギーは必ず自分を愛する力になる。
「できること」が自信になる。
その人を好きな自分に胸を張れる人が一番強い。
優しさは、他人ではなく自分のためって話。
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