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「一方的に別れを切り出して去っていく人」のその後

私が知る範囲での話だけど、そもそも「一方的に別れを切り出す人」って、相手との関係に愛着を持っていない。

愛着っていうのは、そのつながりが居心地がいい、大事にしたいって気持ちのことで、まともに相手と関わりたい気持ちのある人なら簡単に切ろうなんて思わないよね。

ちょっとのつまずきや意見の衝突、また「積極的に連絡してくれない」「期待通りの対応をしてくれない」ことからヘソを曲げ、「じゃあ別れようか」と告げることで相手を追い詰め、「一緒にいたいならそっちが追いかけろ」と自分が満足する流れを作ろうとする。

これってね、立派な「試し行為」なんだよ。やっている当人は絶対に認めないがね。

こうやってテストを重ねることで相手の愛情を確認し、「愛される自分」を実感したがる。

こういう人が求めているのは

他人との交流
愛される自分を知ること
楽しく他人と関われる自分への信頼

で、その欲求自体は普通だし誰もが持つものだと思う。

ただ、「付き合っている・その一歩手前くらいまでは親しい人間」がいざできると、欲求が突っ走るんだよ。

試し行為をする人間は、過去をのぞくとたいていまともに異性と付き合ったことがなく(当人は交際したと思い込んでいるが実際は告白もなければデートが一度きりとかよくある)、気軽に食事に行ける友人もおらず、休日は誰からも誘われず孤独に過ごしていることが多い(あくまで個人的な感想です)。

だから、「人と親しくなりたい」「愛されたい」気持ちが人一倍強く、それはもう砂漠のアリ地獄から這い上がりたいような渇望で、絶望的なほどに求めてしまう。
思いだけが暴走し、好かれること・必要とされる自分を見ることに必死になり、相手の気持ちを受け取る余裕を失う。

だが、それを表に出すと「こんな自分、嫌われるに違いない」「遠ざけられるだろう」という不安も同時に抱えているので、渇望に反して行動は抑制され、「傷つかないためにはまず相手の気持ちを知ってから」が当然となる。

死ぬほど手に入れたいくせに、それをまっすぐに伝えるやり方を知らず、自我を守りながらでしか好きな相手と関われない。無意識のうちにそうなってしまう。

だから、関係に愛着を持てない。

愛着を自覚できるほど相手の心に近づくことが待てず、好きなのだけど見放される恐怖にいつも支配され、心の中は葛藤でいっぱいなのだ。

だから、少しの不具合が”ダメだ”になり、簡単に「だったらもう終わろうか」と言える。

あるケースでは、ずっと未練を抱えていた女性から連絡をもらい、ふたりで楽しく自分も笑顔いっぱいで過ごしていたのに、その女性からちょっと自分の言動の異常さを責められ、間髪入れずに「じゃあもうやめようか」と険悪な顔をして切り出す男性の話もあった。

その女性のことが好きでたまらない態度を終始見せていたのに、「自分はダメな人間だと自覚させられる」場面が来ると一瞬で愛情は憎悪に変わり、反射的に終わりを口にして自分を守るのだ。

捨てられる前にこちらから捨ててやろう。
そうすれば傷つかなくて済む。
こんなつらい思いをするのは嫌だ。

相手の気持ちなどどうでもよく、防御本能で身を固めて会話の本質から目をそらす。

他人との交流
愛される自分を知ること
楽しく他人と関われる自分への信頼

求めていたこれらは、なに一つ達成できずに終わるのだ。それも、自分から一方的に逃げ出すやり方で。

こういう人たちの心に次に浮かぶのが

「波風のたたない平穏な暮らしに戻ること」

で、他人を傷つけたことも、自分の考え方のおかしさもすべて置き去りにして、元の生活に意識を向ける。

誰とも親しくなれず、苦しみを打ち明けられる人もおらず、孤独に過ごす自分を諾々と受け入れるしかない日常。

そこに身を置くことこそが心の安定であり、それまで恋心を向けていた相手は”異質な存在”として過去になる。

いろいろ見聞きしてきたけれど、「一方的に別れを切り出して去っていく人」のその後を尋ねられたとき、

「あなたと出会う前の状態に戻り、あなたとの関係では何も学んでいないしあなたを傷つけたことに反省もしていない」

が答えになる。

他人との深いつながりの中で、何かを得るような余裕はない。幸せな気持ちに浸るより「いつ嫌われるか」「いつ無価値だと思い知らされるか」に心が支配されるからだ。

相手の気持ちを無視して一方的に別れを告げ、傷つけたことも、”間違えた自分”に耐えられないから「そうさせた相手が悪い」「自分は間違っていない」と思わないと立ち行かない。

反省するには精神力が必要で、自分の言動を振り返れば恥辱ばかり感じるのでそれもできない。

「すべてを置き去りにする」。

生きていくためにはこの選択しかない。

これを実感したのは、ある女性がセフレとして相手をしていた男性がいたけれどいつも「自分と恋人として付き合わないこと」にキレられて一方的に関係を切られてしまい、でも「数カ月後にこちらから連絡すれば喜んで会いに来る」という話を聞いたときだった。

女性と離れている間、男性には何ひとつ変化がなく、新しく仲良くなった女性もいなければ過去に相手をしてくれた女性に”突撃”してまた振られたような話しかなかったそうだ。

「私と出会う前と何も変わっていないの。
服も私といたころと一緒、キャバクラ通いを復活させたらしいけど『俺の席に座った途端にスマホを取り出す女でさぁ』とか、イタい話ばっかり」。

過去を置き去りにできるから、「自分の思い通りにならなくて別れたのに、その相手から連絡があればしっぽを振って会いに行く」ことができるし、「別れた後は相手と出会う前の孤独な状態に戻ることに何の違和感もない」のだ。

前に進めない。
変化を望まない。
そこから一歩も動かずに周囲が変わるのを待つ。

これが、「一方的に別れを切り出して去っていく人」の現実だ。

こういう人は、相手を切り捨てた後で過去の異性に走ることもある。

”ご新規さん”を探すにはあまりにも自分に自信がなく、またきっかけを得ても慣れないコミュニケーションをとることは苦行でしかなく、「相手をしてくれたことがある」という事実だけで過去つながりのあった女性に突然コンタクトを取って敬遠される、というケースもあった。

その「過去につながりのあった女性」のことが今でも好きなわけではない。
少しでもいいから「異性に関心を向けられる自分を見せてくれる相手」として選んだだけなのだ。

普段から誰かとまめに連絡を取り合うでもなく、常に受け身で自分から誰かを誘うでもなく、常に「点」でしか他人と関わらない。

それは、「波風のたたない平穏な暮らし」だけが重要なのであって、「誰かと親しいつながりを持って新しい生活を築くことができない自分」からの必死の逃避なのだろうな、とも思う。

当たり前だけど、どんな人生を送ろうとその人の自由であり、その様子に他人があれこれ口を出すのはおかしいと思う。

孤独な日常もその人が選んだ現実であり、当人が納得してるのならそれでいいはずだ。

他人との交流
愛される自分を知ること
楽しく他人と関われる自分への信頼

これらは、自分の努力があってこそかなうものだが、「一方的に別れを告げて去る人」はこの前提を知らない。

先日、「一方的に別れを告げて去る人って、その後ずっと苦しむんじゃない?」と質問されたので書いたのだけど、私が知る限り「元の暮らしに戻るだけ」だ。

他人との関係に愛着を持てなくて安易に別れを選ぶ人が、一人に戻っても苦しむことはない。

その痛みから必死に目をそらし、”なかったこと”にして生きていく姿しか知らない。

だが、それは良い悪いの話ではなく、「そうでしかいられない」のだから、他人の手出しは無用だと思っている。

死ぬほど渇望する「他人からの愛情」は、自分が変わることでしか手に入らない。それが現実。

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