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言葉にする力

Twitter(現X)で、「言語化」についてご指摘をいただくことが多い。
たいていは褒めてくださる内容で、今年はありがたいお言葉に何度も泣いた。
本当に泣いた。
見ず知らずのかたが、こんなど田舎に住む一介のライターの言葉に何某かの感慨を持ってくださるなんて、幸せでしかない。
昔からきつい表現や言い方をするし、具体的に描写をしないと芯は伝わらない、綺麗な文章などこんなところでハナから考えない、本当に「届くかただけでいい」のスタンスでやってきた。
目を通してくださるかた、いつも本当にありがとうございます。

見たものや感じたことを言葉にするのが「言語化」なのだろうが、私の場合はTwitter(現X)ではネガティブな内容のものほどいいねが伸びる傾向にある。

前向きな言葉や希望のこもった文章など、読んだ側にたいした感慨は生まれない、なぜかってそんなこと(内容)は「とっくに知っている」からだ。

「より良くするやり方」なんて、世の中に言葉が溢れかえる今はみんな知識として知っているのだ。
そんな”わかりきった”ことよりも不快感の強い内容に関心を覚えるのは、嫌なことほど心に残りやすく、挽回する機会のないまま裡でくすぶり続ける「厭な感情」は、顔を出す瞬間をどこかで狙っているからだ。

そして、矛盾するのは、嫌悪感を明確な形にすることを人は無意識に避ける、感情に具体的な言葉や表現を当てはめると、その言葉がまた新しい衝撃と感情を心のなかに残すから、嫌悪の正体を突き詰めたい気持ちを掴まないようにしてやり過ごす。

それが「健全」であって、”見ないフリ”で済ませるのが苦しまないコツ、「厭な感情」の具体性など知らないほうがマシなのだ。

それを、私はおそらく文章にしているから、読んだ人は自分のなかで目を逸らしてきたものの「正体」を目の当たりにすることになる。
文章の恐ろしいところは「具体性」で、事象を説明したその表現ひとつで答えになる、「こうだ」と”思ってしまう”。

ずっと抱えてきたモヤモヤの中身だったり、言い表せない疑問だったり、自分の気持ちだけでは解決のつかないことが、他人の文章で形になる、”実はそうだとわかっていた”ことが改めてその通りの実感を突きつける、衝撃は感情に言葉としての形をつけるから逃げ場がなくなる。

引用で「これ私だ」「自分のことだ」と書かれるかたの何と多いことか、「しっくりきた」「納得した」「腑に落ちた」もたくさんいただいてありがたい限りだが、読んだことで何かの答えを得てしまうのが人の言語化の力なのだなとしみじみ思う。


見たものや感じたこと、思った中身を言葉に変換することは、「それをする(表現を探す)作業」に一定の力を使う。
事態の描写や、ぼんやりとした塊に意味を当てる言葉の選別は、脳内でものすごい勢いで語彙を回す。
これじゃない、あれも遠い、と結局は端的でわかりやすいものにたどり着くが、この過程で「再度」「改めて」自分の感情と向き合うことになる。

吐き気がするほどのおぞましさや、一方的に踏みにじられた思いの痛み、そして自分が人に与えた悲しみの大きさを、ふたたび手にすることでそれに合う表現を探す。

この作業は、文章にしたものがそのまま自分の有り様を示すことから逃げられない。

他人の容態について書くが、実際は、そうだと思う(考える)自分の心の状態こそが、文章には現れる。

だから、言語化は人に衝撃を与えるのと同時に己の弱さを再確認する諸刃の剣であって、取り扱いには本当に注意が必要なのだ。

特に私のように「正解」の言い方にこだわる人間は、自分がされてきたことの痛みの消化に言葉を駆使する。
物事や事象はきっぱりと白黒をつけるよりグレーで置いておくほうが”正解”のことも多いのに、自分が溜飲を下げたいからきつい表現でそのときは言い切り、書いた後でその極端さに自分で引いてしまうこともよくある。

これは「失敗」ではなくて、言語化の過程で”絶対に捨てられない痛みの核”が自分にはあって、どうしてもそこを曲げられない自意識なのだと思う。

人の感情に普遍などなく、その人の経験の仕方と受けた衝撃の意味によって物事はいろいろな角度を持つ。
それを文章で「こうだ」と記すとき、必ず通るのがその人の自我と自意識であって、読む人によってはそれこそ嫌悪感しか覚えない結論でも、当人にとっては「正解」になる。

”取り扱い注意”の部分は、その正解は自分にとってだけなのだと理解しておくこと、他人には他人の感慨がありそれは手が出せないものであること、だから「人と違うことに畏怖を覚えなくていい」こと。

「あくまでも自分の感慨でしかないただの表現」を、たとえ他人には受け入れられないものであったとしても、それを生み出した己の自我と自意識を大事にする姿勢が、言語化で間違えないためには重要なのだと思う。

言語化で間違うというのは、「これだけが正解」と他人に押し付けてしまうこと、これ以外の感慨は持ってはいけないとすること、思考停止で”そのまま”にすることだ。

思いを言葉にする作業は、そもそも「それをする(表現を探す)自分」の状態がそのときによって違う。
常に同じ心の状態で物事や事象と向き合うわけではなく、思考を繰り返して新しい価値観を知ったり理解したり、自我と自意識はアップデートを重ねていく。

当時はこうだと思っていたことが、まったく別の恣意を掴んで「こんなこともある」と答えの幅が広がることを、否定してはいけないのだ。
また、単純に語彙が増えて表現する方向が変わり、”今の自分”はこう思う、と改めて出してみる姿勢も、己の気持ちとの合致を確認する作業になる。こっちは「客観視の確認」と私は思っているが、有り様に新しい表現を考えることは、目にする人が受け取る感慨を想像以上に大きくすることを実感している。

それが心の成長であって、当時の言語化を恥じたり反省したりも当然にあって、”それでいい”、変化し続ける己の状態をその都度受け入れていく器になる。

言語化を、「誰が読んでも理解しやすい言葉」「その答えを完璧に文章にしたもの」と思う人も多いが、私個人は

「その人の自我や自意識をくぐり抜けた思考の結果」であり、唯一無二の価値を持つもの

で、

理解するかしないかは読み手に委ねられる以上、表現をこねくり回すより”より自分の感情を正確に表すもの”を考えるのがそのときの正解になる

と思っている。


言葉にすることは、表現を探すことは、正直ものすごく大変だしつらいし、過去の記憶に何度も苦しめられる。

それでもその作業をするのは、自分を愛したいからだ。

己の感情に己で責任を持って形を与えるのが言語化であって、その作業は、本心や本音を知ること、自分の「こう在りたい」をちゃんと見る姿勢になる。

言葉の表現として感情を掴むことは、「そう思う自分」の有り様から逃れられず、それが己をより良くする客観視になる。

人は、自分が変わりたいと思うときしか変化はしない。
その機会をみずから作る、”何度でもやり直す”、それが自愛になる。

こう考えるなんてこいつは何て愚かなんだろう、独りよがりなのだろう、そんな他人の感慨は、必ず「私もそう思う」という人も同時にいる事実を、忘れてはいけない。

人が人の言葉に共感と衝撃を覚えるのは、言語化の過程で経た痛みを無意識に想像するからだ。
だから「わかる」と言えるのだ。
「これは自分だ」と実感を持つのだ。
そういう人たちと新しい感慨をやり取りしていけるのがTwitter(現X)のいいところであって、「人は変わる」、その機会を生む場所であればいいなと。


この一年、多くのかたから感想や示唆をいただき、深い思索を得ました。
目にしてくださるかた、本当にありがとうございます。
私を幸せにできるのは誰でもなく私自身で、「言葉を吐く」のはその一つ、紛れもなく自分のためです。
自分を変えるのは自分だけであって、言語化は誰もができる自愛の一つなのだと、知っていただけると幸いです。

本年も、本当にありがとうございました。
これからも精進してまいります!


言葉にする力は自愛だよって話。

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