ゴリラはゴリラらしく
ゴリラにゴリラが映ったスマホを見せると、ゴリラはそのスマホをのぞき込むらしい
動物園の中にはゴリラがスマホを見る行為について「ゴリラらしくない」との理由で、来園者にゴリラにスマホを見せないように要請する動物園もあるという
だが、ゴリラらしさ、とは何だろう
動物園側はスマホを見るゴリラは「ゴリラらしくない」とするが、スマホを見ることがゴリラの望んだことならゴリラらしさとは何なのか?
ゴリラはその辺の草でも食べておけ
多分、動物園はそう言いたいのだ
それが動物園側の求めるゴリラらしさなのだろう
子供は子供らしく、女性は女性らしく
人は相手がその属性に従うことを暗に求めるものだ
だが、子供なのにサラリーマンより悲観的な子供もいるし、男性よりガサツな女性もいる
そういう相手に対し、人は、子供のくせに、女性のくせに、と、その属性を根拠に非難する
だがそれは、個性である
相手のことを考える、とは、属性よりも個性を優先させて接することだ
思慮深く相手に思いやりをもって向き合う人間ならば、相手がゴリラであっても、その姿勢は変えるべきではない
ゴリラはゴリラらしく振舞っておけ、というのはゴリラを下に見ている感じがするのはなぜか?
それはゴリラに、その属性に沿った振る舞いを強いているからだ
相手に対し、その属性に沿った振る舞いを強いるのは、相手を道具としてみている証である
(だから、女性は女性らしく振舞っておけ、とは今の時代、思っていても言いづらい)
相手そのものより、その属性と付き合っている
属性だから、それは替えが効く
その個性が気に入らなければ、同じ属性の別の個体を探せばいい
なぜなら今はネット社会
検索ならいくらでもできる
ネット企業の発展は人を属性に分解することによって支えられている
グーグルやメタが天文学的な収益を上げているのは、人を属性に分解し、その属性ごとに商品を売りつけたり、人そのものを商品とすることで、天文学的な効率を達成している
現代は、属性ではなく個性が尊重される豊かな時代、ということになっているが、それは自分たちが属性に分解されることによって成立している
ゴリラはゴリラらしく、という動物園側の主張に私が違和感を覚えたのは、恐らくそういう理由からだ
つまり、時代は二枚舌
個性を尊重する、と言っておきながら、属性しか見ていない
騙されるな