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駱駝の時間

精神は駱駝から獅子になり最後は幼子にならねばならない
これはニューチェが唱える精神の三段の変化である

この話には「創造しようとするならば」という前提がある
ありものだけで満足できるなら、こんな話は無視すればいい
何かを創り出そうとしているのなら、この話の意味を何度でも確認すべきだ

最近、私が身をもって感じるのは、駱駝になれなければ獅子にはなれず、獅子になれなければ幼子になれない、ということだ
子供のような何にもとらわれない自由な発想、自分のことしか考えない自由な意志があれば、自分が創りたいものが創れるわけではない
子供が作るものは、子供のレベルなのだ

人事異動となり、今年から出社勤務となった
サーフィンしていた時間、通勤電車に乗っている
波と格闘していた時間は、隣の奴の肘と戦っている
サーフィンの後は遅い朝食だった
食べると眠くなるので、眠気に逆らわず昼寝したが、今はその時間、会社でエクセルと格闘している
去年まで会議といえばリモートだった
決して顔を出さず、その間、ベランダにサマーベットを出して日光浴をしていたが、今は会議に出ると初めてやる業務を覚えるために、自分でも読めない字で必死にノートをとっている

自由が取り上げられた、と感じた
この先、自分の精神が耐えられるのか心配になった
会社を辞めるという選択も、一つの選択肢として検討した
それでも会社に行くことにしたのは、辞める前に駱駝になってみようと思ったからだ

駱駝とは「三段の変化」で説かれる精神の第一段階のことだ

精神にとって多くの重いものがある
たくましく、辛抱強い精神にとっては、多くの重いものがある
その精神の逞しさが、重いものを、最も重いものをと求める

どういうものが重いものなのか?
辛抱強い精神は尋ねる
そして駱駝のように膝を降り、たくさんの荷物を積んでもらおうとする
どういうものが重いものなのか?
それを背負って、自分の強さを感じて喜びたいのである

最も重く苦しいものとは、自分の高慢の心に悲しみを与えるために、すすんで人に服従することであろうか?
自分の知恵をあざけるために、自らの愚かさを人目に立たせることであろうか?

それとも、努力したことが成就して、ようやく勝利を祝おうという間際に、それを捨て去ることであろうか?
悪魔を試みるために、高い山に登ることであろうか?

草の根を口にして、真理のために魂の飢えに苦しむことであろうか?

病気になりながら、慰めてくれる人たちを家に帰し、自分の望みを聞き入れてくれないつんぼの人たちを友達にすることであろうか?

真理の水であるなら、汚い水の中へもおりて行き、冷たい蛙だろうが熱いガマだろうが、嫌がらないことであろうか?

自分を軽蔑するものを愛し、幽霊が自分を恐れさせようとするときに、それに手を差し出すことであろうか?

これらが重いものというのなら、これら全ては会社にある
これらを背負うことが、何かを生み出す第一段階となるのなら、もう一度最初からやってみるのも悪くない

何しろ、もう一度できるのだ
去年までの生活は3年間続いていたが、終ぞ、何も生み出すことはできなかった
ならば、ここらで方向転換してみるのは、悪くない選択だ
行き着く先が見えていて、そこに望んだものが見えないのなら、行き着く先は見えないが、その先にあるものを見に行くべきだ

そこにあるのは砂漠だろう
それは己の求めた砂漠だから、もっとも荒涼たる砂漠である
その砂漠で自由を獲得したとき、駱駝は獅子になる

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