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ダンスをするように礼儀を覚えるのだ。|アラン「幸福論」(8)

おはようございます📚

本稿は、アラン「幸福論」の最終回です。

ダンスをするように礼儀を覚えよ

 まずタイトルの言葉から解説します。
 ダンスの型を、教本を読んで覚えることはまず大事です。でもそれだけではありません。
 相手の呼吸に合わせて的確な対応をとり、しなやかな動きこそが、ダンスの上級者の姿なのです。

 礼儀とは、決まりを守るだけでは不十分です。相手へ配慮した対応が必要なのです。礼節を訓練によって習慣化することで自分の内的な幸福が産まれてきます。そして、幸福な精神から、礼節がにじみ出る、そんな補完関係にあります。

なぜ、礼儀なのか?

 先ほど述べましたが、礼儀は幸福を呼ぶ、とアランは言います。

 優雅とは、誰も傷つけず、誰も不安にすることのない、表現と動作の幸福である。
「幸福論」(アラン)

 そして他人に対して幸福を与えるためには、自分が幸せであることが必要です。そんな正のスパイラルを引き起こすために、良い気分で礼節を重んじる態度で人と接することが大切なのです。

 ここで述べている「礼儀」これは、論語の「礼」と同じでし ょうか?
 論語では、「礼」と「仁」は表裏一体のもの、と考えられています。内面の仁が、礼となってにじみ出てくる、そんな関係です。

己に克ちて礼に復るを仁と為す
「論語」岩淵篇

 このように考えるとアランがいう礼節、礼儀は、内なる幸福からにじみ出るものであり、やはり内面と外面の関係にあるという共通点があります。


不幸な相手に対峙する

 あなたが上機嫌でありますように。これこそ交換し合うべき物である。
これこそみんなを、まずは贈る人を豊かにする真の礼節である。
これこそ交換することで増えていく宝である。
(中略)
あなたはこの上機嫌の波に乗ってどんな小さな浜辺にも行ける。注文のボーイの調子が違う。椅子を通り抜けるお客さんたちの様子が違う。こうして、上機嫌の波があなたの周りに大きくなって、全てのものを軽くする。まずあなた自身を。
「幸福論」(アラン)


 また、不幸な状況にある相手と向き合う場合に、憐れみ過ぎず、「快活な友情」を示すことだ、と言っています。

実際、彼をあまり憐れみすぎてはなるまい、
冷酷かつ無関心であればいいというのではない。
そうではなくて、快活な友情を示すことだ。
誰も、人に哀れみを惹き起こさせることは好まない。
もし自分がいても健康な人間の喜びを
消し去りはしないということがわかれば、彼はたちまち立ち直り、元気が出る。
信頼こそ素晴らしい妙薬である。
「幸福論」(アラン)

さいごに

幸福は目標でなく、「意志」だ。
「幸福論」(アラン)

 幸福は追い求めるものではなく、普段の相手に対する礼儀正しさ、上機嫌な態度を保つという意志を持ち、習慣化してしまうことなのだと私は思いました。

自分のことを考えるな。
遠くを見よ。
「幸福論」(アラン)

あまりにも自分の周囲を近視眼的にとらえて悩みを持ち不機嫌になり過ぎず、たまには星を見るように遠くをゆったりとみてみよう、と説きます。


 長くなりましたが、幸福論は、読めば読むほど味を噛みしめることができるような内容でした。一度原文訳を読んでみようと思います。

ご興味のある方は、まずは、NHKの100分de名著シリーズの書籍か、NHKオンデマンドで世界観を感じてみてはいかがでしょうか。

ではまた!

(参考)

NHK「100分de名著」ブックス アラン 幸福論


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