見出し画像

終着駅の猫

「お客さん、終点ですよ。お客さん!」
しまった! 寝過ごしたか。
酔いのまわる足取りでふらふらとホームに降りる。時計の針はとっくに零時をまわっている。何てことだ。上りの最終電車も出た後だ。
改札に出るとタクシー乗り場には三人ほどが並んでいた。タクシーで帰ったら相当な金額になるだろう。私は改札に戻り、駅員にこの辺にホテルはあるかと尋ねた。駅員は、あるにはあるけどラブホだけだ。始発まで時間を潰すのであれば、この先にネットカフェがある。と教えてくれた。しかし、訪ねたネットカフェは満室で入れなかった。

私は酔い覚ましに缶コーヒーを飲みながら、どこかに深夜営業のファミレスでも無いかと歩きまわったが、そんなものは一件も無かった。
歩き疲れた私は公園のベンチに座って、このまま朝までここで過ごすと腹を決めた。酔いはベト付くスライムのように五感に絡みついている。ベンチに横になると新緑を茂らせた枝の向こうに寝待ち月が輝いていた。

「ねえ、起きなよ。そんなところで寝ていると風邪ひくよ」
そう言われて目を覚ました。確かに寒い。しかし周りを見回しても誰もいない。夢か?
「ここだよ、ここ」
目の前に薄汚れたグレーの縞猫が居た。
「えっ、おまえか?」
「君には僕の声が聞こえるみたいだな」
「本当におまえがしゃべってるのか?」
「人間には僕の声が聞こえるヤツと聞こえないヤツがいるんだ。圧倒的に聞こえないヤツの方が多いけどね。君は珍しく聞こえる部類のようだ」
連日の痛飲でアルコールが脳を冒し始めたのか。幻聴幻覚まで出てくるようになった。
「さあ、こっちだ。暖かいところに連れて行ってやる」
私は歩き出した猫を無視した。明日はバイトを休んで医者に行った方がいいかもしれない。
猫は振り向いて言った。
「早く来いよ。そんなところに居ると本当に風邪引くぞ」
その通りだ。暦の上では夏になったとはいえ、郊外の夜は冷える。
「実は君に頼みたいことがあるんだ。頼むよ。来てくれよ」
私はベンチから腰を上げて猫について行った。身体を動かさないと本当に風邪を引きそうだったし、それに猫には何か一種の切実さのようなものが感じられたのだ。

そこは大きな公園だった。私は猫について公園の奥に歩いて行った。築山を越えて藪をかき分けると洞穴のようなものが現れた。
「ここだよ」
私は腰をかがめて中に入って行った。
「これは戦争中、人間が掘った防空壕さ」
「こんなもんがまだ残ってるのか」
私は携帯のライトを付けて猫について行くと、直ぐに開けた場所に出た。周囲を照らすと10匹近い猫がこちらを見ている。
「なっ、ここはあったかいだろ」
確かに暖かい。私はグレーの縞猫に聞いた。
「ここに居るのはみんなお前の仲間なのか? お前と同じように人間と話すことができるのか?」
「そう、僕たちは家族のようなものだ。でも君と話せるのは僕と長老だけだ」
グレーの縞猫はそう言って、奥に伏せている年老いた猫に歩み寄った。茶と白の毛足の長い大きな猫だった。
「長老は2日前から動けなくなった」
寝息を立てている長老の身体をそっと撫でると、彼は薄く目を開けて私を見つめた。
「長老は水を飲みたがっている。でも、ここには水が無いし、僕たちには運ぶことが出来ない。だから君にどこかから水を持ってきてもらいたいんだ」
とグレーの縞猫が言った。

私はグレーの縞猫に一緒に来るように言って防空壕を出た。外はどこも同じような景色で、酔っている自分に戻って来られる自信が無かった。
暗い公園の中を歩きながら彼に聞いた。
「長老は何歳なんだ?」
「詳しいことは分からないけど20歳近いんじゃないかな」
「猫の20歳というのは相当な年だよな」
「もう長くは無いかもしれない」
グレーの縞猫うなだれて言った。
「長老は過去世のことを覚えているんだ」
「過去世?」
「長老として生きる前の生」
「ほう、それは面白いな。前はどんな猫だったんだ?」
「前の生は人間だったみたいだよ」
「人間だった?」
「そう、医者だったんだって。仕事が凄く忙しくて、徹夜続きで、家でまったり寝転んでいる猫を見て、“ああ、俺も猫になりたい”って思いながら眠りについたら、そのまま目覚めなかった。気がついたら猫だったっていう話だ」
「医者だったということは医学の知識もあるのか?」
「そう、でも断片的だ。思い出すときも、忘れているときもある。それに、その前の生の記憶とごっちゃになっている場合もある」
「長老はそんなに人生というか猫生というかを繰り返してきたのか?」
「そうだよ。あの防空壕も戦争中に自分で掘ったらしい」
「戦争中も人間だったのか?」
「そのようだ。長老によれば、生あるものは永遠に生と死を繰り返しているということだ。つまり、君も僕も、遠い昔から様々な生を繰り返し、そしてそれは未来永劫に続いていく」
「俺にも過去世があったのに忘れているだけということか?」
「僕も覚えていない。でも子供の頃には、既視感っていうの? 初めて来た場所なのに来たことがあるような、見たはずのない光景を知っていたような、そんな感覚を覚えることがよくあったよ。君には無かった?」
確かに子供の頃はよく既視感を覚えた。既視感は過去世の記憶で、それは時間の経過と共に薄れていくということなのか。

私はコンビニの前で縞猫を待たせてミネラルウォーターを買いに行った。でも猫はペットボトルからそのまま飲めないよな。そうだ。猫缶も買えばいい。誰かにこいつを食わせて、空き缶に水を注げばいい。そういえば何だか腹減ってそうな奴らだったなと思い、猫缶を10個ほど奮発した。

美味そうに水を飲んだ長老は私に言った。
「ありがとう。生き返ったよ」
「良かった」
「あなたも水を飲んだ方がいい。だいぶ酔ってらっしゃるようだ」
「いや大丈夫です」
「酒は血液をドロドロにする。水分補給が大事なのです。脳血管障害を起こすと大変です」
「本当に大丈夫です。これは貴重な水だから。もっと買ってくればよかったですね」
何故か私は猫に対して敬語を使っていた。長老はそうした、対峙するものに居住まいを正させるような威厳を備えていた。
「先ほど、グレーの縞猫君に聞いたのですが、長老は過去世を記憶しているのですか?」
「聞きましたか。そう、私は私の生きたいくつかの軌跡を覚えています。断片的にですが、大昔の記憶が蘇ることもあります。人間として生きたときに、この能力を備えていたら、もっと充実した人生を歩めたと思うのですが、中々上手くいかないものです」
「生命は永遠なのですか?」
「生きとし生けるものは全て生死生死を繰り返す存在です。生まれて、成長し、老いて、死んでゆく。そしてまた次の生が始まるのです。私は恐らくもう長くはないでしょう。でも猫として全力で生きて、ここの仲間を守ってきました。何人かの人間の力になったこともあります。だから何も悔いは無いし、次の生へ旅立つのは楽しみでもあります」
携帯のバッテリーが心配で、コンビニで買い求めたペンライトの淡い光に照らされた空間に長老の深いバリトンが響いた。
「あなたも若さにまかせてあまり無理をされない方がいい。酒は程ほどにしておかないと」
「飲まずにはいられないこともあります」
「そうですか。何か悩みを抱えていらっしゃるようだ。話してみませんか? 誰かに話を聞いてもらうだけで、気持ちが楽になることもあります」
心をふんわり包み込むような長老の声の響きは、老練のカウンセラーを思わせた。
「ここに居る中であなたの話が理解できるのは、私とあなたを連れてきた縞猫だけです。プライバシーは守ります。もっとも猫の言うことを理解できる人間もざらにはいません。安心してください」
そう、私は私の苦衷を誰かに伝えたかったんだ。恋人と親友を無くした孤独を理解してくれる誰かを求めていたんだ。


私には音楽が全てだった。
高校で組んだバンドで私はギター、拓也はベース、そして美沙はボーカルだった。
バンドはこの3人を中核として何度か解散と再結成を繰り返し、私たちの住んでいる地方都市では結構名の売れたバンドになっていった。ライブを行えばそれなりの集客があったし、行政の行うイベントに呼ばれて演奏することもあった。
目標はメジャーデビュー。私たちは東京に活動拠点を移してそれを目指した。ところがそこは、私たちよりはるかに実力の高いバンドが同じ夢を抱いてひしめき合っていた。
東京に人脈がない私たちに出来ることは路上ライブを繰り返すことぐらいしかなかった。レコード会社には何度もデモテープを送ってもみた。しかし何の反応も無かった。苦しい生活を、ただ夢だけが支えていた。

やがて美沙と私は愛し合うようになり同棲を始めた。拓也が去ったのはその頃だった。二人で暮らす安アパートに帰ると、路上ライブを無断欠席した拓也の手紙がポストに入っていた。
“俺はもう疲れた。これ以上音楽に情熱を注ぐことが出来ない。今までありがとう”
拓也らしい几帳面な字でそんなことが書かれていた。それ以来携帯も通じなくなった。彼の住むアパートも引き払われていた。私は突然失踪した無二の親友を捜し回ったが、何ひとつ手がかりはつかめなかった。
何故だ。思い当たることはひとつしかなかった。拓也もまた、美沙に恋心を抱いていたのではないか。そうでなければ、青春の全てを共に生き、労苦を共有してきた友が突然消え去っていく理由が見当たらない。
私は自分の無神経さが腹立たしく、疚しくもあったが、そんな忸怩たる思いを抱えつつも、美沙とふたりで路上ライブを重ねていた。

ある晩、ライブが終わって機材をかたづけていた時に、美沙に声をかけてきた男がいた。渡された名刺には音楽事務所のプロデューサーという肩書きが書かれていた。ようやく俺たちも日の目を見る時が来たんだ! そのときは単純にそう喜んだ。翌日プロデューサーに連絡すると、用件は美沙のスカウトだった。
それは何枚かCDをリリースしているプロのバンドだった。女性ボーカルを探していたそのバンドのリーダーが路上ライブで歌っていた美沙に興味を持ったようだ。何回かのボーカルテストを経た後、彼女はそのバンドに加わった。
「ごめんね。私行くから……」
彼女は荷物をまとめて去って行った。


私の長い話をじっと聞いていた長老が口を開いた。
「それは、辛かったですね」
不覚にも私は涙が出そうになった。
「あなたはもう音楽をやめようと思っているのではないですか?」
「そうですね。仲間もいませんし、自分には才能が無いのではないかと……」
「あなたがどのような道を選ぶか、それはあなたの自由です。でも、やめるのは今では無いと私は思います」
「今ではない?」
「もう、だいぶ昔のことになります。私が人間として生きた、そう戦時中の話です。私の友人にあなたと同じ音楽家がいました。ピアニストとして将来を嘱望されていた。美しい伴侶を娶り、可愛い娘も生まれた。しかし、戦局が悪化し、彼にも召集令状が届きます。そして出征した彼は戦場で右腕を失ってしまう。奥さんは幼い子供を抱えながら、復員した彼を必死で支えますが、結核に冒されて亡くなってしまいます。彼は様々な仕事を遍歴しながら男手一つで娘を育てていきました。
ピアニストとしての将来を絶たれた彼ですが、音楽への情熱は捨てなかった。やがて作曲家として大成していくのです。彼に襲いかかるいくつもの試練を糧に変えて、今なお唱い継がれるいくつもの名曲を残しました。それに、彼が左手だけで奏でるピアノは、技巧というレベルを超えて、聴く人の魂を揺さぶる深い響きがありました。もし彼が順風満帆に人生を送っていたとしたら、ただ巧いだけのピアニストで終わったかも知れません」
「浅井昇平はあなたのご友人だったのですか?」
私は隻腕の作曲家として名をなしたその音楽家に畏敬の念を抱いていたのだ。
「あなたに才能があるのかどうか、私には分かりません。でも、今やめれば一生悔いを残すようなことになるかもしれません。夢破れたことを誰かのせいにして、惨めさを糊塗するために酒に逃げるようなことはやめるべきです。大事なことは自分が納得できるまでやり通すことです。ここまでやってダメなら悔いは無いと言い切れるまで続けることです。浅井のように逆境を乗り越えれば、その分、人は深い人生を歩めるのです」
長老の言葉は干ばつに萎えかけていた草花を蘇らせる慈雨のように私の心に降り注いだ。

「あなたは何のために音楽をやっているのですか?」
何のため? 改めてそう問われると答えに窮した。何のためだ? 何のために人を傷つけ、そして傷ついて音楽をやってきたんだ?
「ひとつ大事なことを教えましょう。永遠の生命から見れば、音楽家として成功するとか、金儲けが出来るとか、そんなことは、実はたいした意味を持たないのです。地位も名声も財力も、次の生に持って行ける訳ではないのですから。持って行けるものは“どのように生きたか”という行為の蓄積だけなのです」
「行為の蓄積?」
「そう。行為の蓄積によって人格は形作られます。人格という言葉は適切では無いな。私の場合は猫ですから。猫格という言葉はありませんね。まあ、もっと広義な意味で生命としておきましょう。行為の蓄積として形作られた生命は生死を越えて継承されるのです。
どれだけの人の力になれたのか、励まし、元気づけたのか、あるいは裏切り、傷つけたのか、それらの行為は全て生命に刻み込まれるのです。あなたは今日、私たちに水と食料を運んでくださった。改めてお礼を言います。ありがとうございます。でもあなたのその行為が、実はあなた自身の生命を飾っていくことにもなるのです。
だからあなたが音楽に取り組み意味は、あなたの音楽で、聴く人に励ましを贈ること。勇気を贈ることだと捉えることです。たとえそれがたったひとりであったとしても、あなたの音楽がそのひとりに届けば、素晴らしいことではないですか。あなたがすべきことは、今の苦しみを乗り越えて、同じ苦しみを抱いている誰かに語りかける音楽を奏でることです。そしてそれは、あなた自身の生命を磨いていくことにもなるのです」
気がつくと私は泣いていた。天啓に打たれたような衝撃だった。
「少し疲れました。休ませてください」
長老はそう言って横になった。
「ありがとうございます。長老の言葉は決して忘れません。また、アドバイスを頂きに来てもいいですか?」
「あなたが次にみえるときに、私が生きているかどうかは分かりません。でも別の形で力になれることはあるかもしれませんね」
私は長老がいつでも水を飲めるように、他の猫たちが平らげた猫缶を集めて水を注いだ。

グレーの縞猫と白い猫が近づいてきて言った。
「僕の家内だ。彼女はキラキラしたものを集めるのが趣味なんだ。これは最近見つけたヤツ。今日のお礼だ」
それはビーズを編んだミサンガだった。先端同士を引っかけると円状になる。私はそれを左手首に巻いて防空壕を後にした。

小鳥のさえずりで目覚めると公園のベンチだった。そう、昨日の晩、というか数時間前、ここで朝まで過ごすと腹を決めたベンチだ。
防空壕での猫たちとの邂逅は夢だったのか。妙にリアリティのある夢だった。長老の話に深い啓示を受けたのも事実だ。でも、猫と会話することが出来るなんて夢でしかない。しかしその不思議な夢のおかげで、もう一度前を向いて進んでいけそうな気がしてきた。
私はまばゆい朝の光の中で、自分自身の再生を誓った。

ひどく喉が渇いていて、飲み物を求めて歩き出した時、コーヒーの空き缶をベンチに置きっぱなしにしていることに気がついて取りに戻った。
そのとき、ベンチの下に落ちているビーズで編まれたミサンガを拾った。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?