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連載 対応力 精神疾患とうまくつきあう方法 全21巻

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私自身30年以上双極性障害に翻弄されてきました。 私の経験が似た境遇の方々の助けになればと思い筆を執りました。
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連載① 対応力 精神疾患とうまくつきあう方法

はじめに 一口に精神疾患と言っても様々ですが、 みなさんは、双極症という病気をご存じでしょうか?古くはそううつ病とも呼ばれ、うつ病とも似た症状がありますが、全く異質な病気で現時点では完治しないとされている難しい病気です。 でも、この病気は服薬と生活習慣に注意することによって通常と変わらない生活が送れます。 この病気に30年以上翻弄されてきましたが、 同じような精神疾患で苦労されている方々の何かの参考になればと思い私の遍歴を綴っていきます。 次回から具体的な内容に入りま

連載② 対応力 生誕から就職まで その1

私は1968年岡山県岡山市にごく普通の家庭に長男として生まれました。父親は普通のサラリーマンで近場の転勤が何回かあった後は地元を離れることはありませんでした。 子供の頃は記憶力が良く、漢和辞典を丸暗記とか 電話帳を延々ながめたり、天皇や中国の皇帝の系図を書き写したりと少し変わった子供でした。 幼稚園くらいまでは元気いっぱい遊び回っていましたが、運動神経が良くなく次第にインドアが好きになり、推理小説など読書好きになっていきました。 私が中学の時に父親が実家近くに家を建て、

連載③ 対応力 生誕から就職まで その2

大学でも吹奏楽団に入りましたがかなり出席率が悪く幽霊団員と揶揄されたりしながらも、団長も務めました。 この頃はサークル活動なんだから出席欠席は個人の理由との自分勝手な解釈で本格的に力を入れていませんでした。そのためか、団は在学中4回連続で東海大会にコマを進めていましたが、私自身は2年次の出場1回きりでした。1年次は補欠、3年次は学部の実習と重なったとはいえ、今思えばなんともったいないことをしたか。 学業も3年次まではまずまず順調でしたが、これといった将来像を明確にしていな

連載④ 対応力 20代 通院時代 その1

それでも1991年4月、神戸に本社のある外資系の製薬会社になんとか就職し、最初の三ヶ月は神戸のはるか山奥の関学のセミナーハウスで缶詰状態の研修。よく考えれば就職活動もたいしてしなかったのに、すんなり決まってしまったのも今考えればよくなかったのかもしれません。 この時にもウツを再発してやっとの思いで研修終了。講義漬けの毎日にもかかわらず食事を普通にとり、運動を意識していなかったのがあだとなり体重が激増、研修で知識も脂肪も蓄えてしまいました。 7月から博多に赴任して本格的に仕

連載⑤ 対応力 20代 通院時代 その2

後で人身事故の相手の老婦人がなくなったと人づてに聞き、警察に逮捕されると思い込み約半年の引きこもり状態に。 開き直って状況を受け入れられればよかったのですが、当時はそんな余裕は全く無く罪悪感のみが支配していました。ただ、今思えばそのあとの病状を考えればほんの序の口だったなと。 あまりの長期のウツ状態に両親が見かねて、知り合いから日赤の心療内科を勧められ通院を開始。 1992年秋、ほどなく症状が改善し、当時はやりだったファミコン屋のバイトとマクドナルドの夜勤の清掃バイトを

連載⑥ 対応力 20代通院時代 その3

1995年2月、学生時代の吹奏楽の経験を活かせないかと、広島の録音録画会社に就職。おりしも阪神淡路大震災の直後でしたが、上半期は東京や北海道の出張もこなし順調でしたが、内勤の仕事で行き詰まり年末に退社。 この時、仕事はただ単に好きなだけではダメだと痛感させられました。  1996年夏、市内の鉄工所に就職。パソコンを使っての現場への生産指示の仕事でした。1992年当時から抗うつ剤の服用を継続していましたが、勤務先の社長夫人から「薬に頼ってるようじゃダメ!」と指摘され、症状も

連載⑦ 対応力 30代最初の長期入院 その1

1997年12月1日から1998年4月20日まで約半年医療保護入院しました。特に最初の一二週間は独房に隔離されました。本人の安全確保ももちろんですが、それ以上に他人に危害を加える恐れもあるため、食事やお茶も鉄格子越しのやり取りで、将来のことなど考える余地はありませんでした。 開放病棟に移ってからも療養以外にすることがなく、10年日記帳をつけ始めました。当時はもうこの病院から退院できないと思い込んでいました。 せめて10年は生き延びたい。 そんな気持ちから始めた日記は、お

連載⑧ 対応力 30代最初の長期入院 その2

せっかく始めたこの仕事ですが、通勤に車で片道45分かかっていました。この仕事は長く続けられないと思うようになり、仕事をしながら同時進行で行政書士の資格に挑戦したり、医療事務の資格にも手を出しましたが、世の中はそんなに甘くなく、生兵法は大怪我の基の言葉通りどちらも形にならず、そのまま勤務がずるずると続きました。 結局2004年3月まで約5年間在籍はしましたが、勤務状態はさんさんたるもので、薬が睡眠薬を含めてなかなか合わず、体調も好不調の波が激しく遅刻早退欠勤の繰り返しが続き、

連載⑨ 対応力 30代最初の長期入院 その3

仕事の内容は、駅前近くの事業所を10数か所回って差し出された荷物を軽ワゴンで集めてきて、伝票処理したのち発送部署に送る役目でした。 15時から20時の勤務で当時朝の弱かった私としては追い風になりました。職場での人間関係も順調に丸3年勤務できました。 しかし、この職だけで定年までというイメージが湧かなかったので、何か手に職をと思いつきどうせなら他人のやりそうにないことをと考え、マルセイユタロットの資格を取ることにしました。 2006年10月からアストロロジーの講座も受講し

連載⑩ 対応力 30代最初の長期入院 その4

そして、2008年3月20日から25日の6日間、大阪桜ノ宮での上級コースを受講。フランスから大家を招いての本格的なもので、郵便局の有給休暇を取っての参加でした。その際に、同時に受講していた方との縁でアロマオイルとオーラソーマに遭遇。 今にしてみれば、この二つが私の人生を大きく狂わせることになりますが、当時の私はそんなことは知る由もなかったですね。 どちらも医薬品ではないものの、体に与える影響は良くも悪くも大きかったようです。皮膚に直接触れてもよいとのことで、体に塗布してい

連載⑪ 対応力 40代2度目の長期入院 その1

2008年6月19日から2009年10月6日まで、都合4回入退院を繰り返しました。日記帳は継続中で11年が経過して2冊目に入っていましたが、入院中は空白のページがあちらこちらにあり、何の治療を受けているかさえ自分でもまったく把握できませんでした。 最初の入院は一か月強で7月29日に退院しましたが、仕事に復帰しても手順が頭に入らない状況に陥りまた躁状態に。 8月9日から11月11日まで再入院して2回目の退院。しかしこの時すでに、両親が現在の仕事を続けるのは無理と判断してしま

連載⑫ 対応力 40代2度目の長期入院 その2

さらに状況が悪化して11月26日に3度目の入院。ここから約半年の長期の入院に入ります。年を越し誕生日のころまではまだ状況がそれほど悪くなかったですが、 2009年2月にmECTという治療を受けました。しかし、これは日記帳に記してあったのでわかっていますが、当時の記憶は全くなく全身麻酔を施していたからだと今は理解できていますが。 3月に入って、病状がかなり改善してきて、月に1,2回の外泊ができるまでになってきていましたが、過去の状況から退院まではさらに時間を要することとなり

連載⑬ 対応力 40代2度目の長期入院 その3

ゴールデンウィークが明けた5月11日、3回目の退院。私も周りももう大丈夫と思っていたが5月27日あえなく4回目の入院。 入院時は、任意だったものの4日目に看護師とトラブルを起こして医療保護に強制変更、1週間の独房生活に。 その後順調に回復して、7月14日に開放病棟に変更。ところが、主治医と薬のことで揉めて、それが原因かどうかは定かではないですが8月7日古い方の閉鎖病棟へ転棟、8月26日になってようやく別の開放病棟へ転棟。10月6日にやっと4回目の退院。 私でなくてもそう

連載⑭ 対応力 40代2度目の長期入院 その4

そして、2010年暮れから新薬のラミクタール導入に突入。今まで飲んでいたリーマスをいったんストップする荒療治でしたが、案の定、切り替えに失敗して強烈なウツが出てしまい2011年4月8日から5月31日まで入院。  この時もmECTを受けましたが、7回処置でその都度絶飲食と全身麻酔と点滴。この時の記憶はまだ残っていますが、2009年当時の記憶が全くないに今更ながら恐ろしさが拭えません。 ひょっとしたら苦痛軽減のため、主治医が何かしらの処置を施したのではないかとの疑念が今もあり