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連載③ 対応力 生誕から就職まで その2

大学でも吹奏楽団に入りましたがかなり出席率が悪く幽霊団員と揶揄されたりしながらも、団長も務めました。

この頃はサークル活動なんだから出席欠席は個人の理由との自分勝手な解釈で本格的に力を入れていませんでした。そのためか、団は在学中4回連続で東海大会にコマを進めていましたが、私自身は2年次の出場1回きりでした。1年次は補欠、3年次は学部の実習と重なったとはいえ、今思えばなんともったいないことをしたか。

学業も3年次まではまずまず順調でしたが、これといった将来像を明確にしていなかったツケが回ってきて、4年次の時に最初の試練。

所属の研究室の担当教官とウマが合わず、今でいうウツ状態に。教官は卒研が進んでいないことをチクチク指摘してきて性格の不適合で卒研自体が滞り徐々に研究室から足が遠のいてしまいました。

卒研の発表会も他の教官からも苦言を呈され、これでは卒業は認められないなと、皮肉たっぷりに嫌みを言われやっとのことで卒研発表会を済ませ、
追い出されるように1991年3月卒業。

つづく

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