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母の最期

時として、母の最期を思い出して、考えることがある。

たびたびではないが、記憶の奥に行こうとするのを引っ張り出してきて、考えることがある。母はアルツハイマー型認知症を患っていた。そして大腸癌もあった。

84歳と言う高齢にアルツハイマー型認知症も手伝って、大腸癌の手術はできなかった。それにその頃には、母は殆ど話すこともできなくなっていて、だから母の意思を汲むこともできなくなっていた。そして父の他界後は成年後継人を付けなければならなかったし、医療費や介護費の負担は老齢年金で賄えない部分は姉弟二人で払うことになっていた。

ある日、病院の先生が言ったのだ。「癌の進行がお母様にどのような影響を与えているか、(母が)なにも話さないのでわからないが、痛みがあるんだと思う。鎮痛剤を打ってはどうか。」と。これはイコール死を意味するのを理解した。すごく悩んだ。以前の母はもっと穏やかな顔をしていたのだと思う。気がついたら、全然笑わないし、以前は時折見せていた安らぐような顔つきもしなくなった。

寝たきりになり、全く話すことはなくなり、食事もあまり取らなくなった。胃瘻の話も出たけれど、ただ生かすためだけにするようなことは避けたかったし、やはり口から食べなくなったら、その時は最期だと思っていたからだ。

そして鎮痛剤を打ってもらうことに承諾をした。

母は鎮痛剤を打ちはじめた、その次の日の未明に亡くなった。

鎮痛剤を打つとき、母は皮下注射が腕ではできずに、お腹から注射を受けていた。その時はひさしぶりに、母の穏やかな顔つきをみることができた。それはとろけるような優しい顔をしていた。それで癌による痛みがあったのだと言うことに気がつかされた。2017年9月11日昼のことである。そして妙にバイタルも激しく変わることがなく、その母の顔に安心したので、次の日また会いに来ようと思い帰ったのだ。そしてその夜、次の日になったばかりの未明に、電話がかかってきて「母が亡くなった。」と病院から知らされた。

雨が降っていた。

葬儀社の車を呼んで、母が帰りたかった自宅前に寄ってから、葬儀社の安置所に預ける形をとった。母は綺麗な顔をしていた。まるで目を覚ますんじゃないかと思えるような。そして母の郷里に住む姪っ子たちが集まってきた。母は姪っ子たちに慕われていた。それが何よりもわたしは嬉しかった。

いま思う。母は幸せだったのだ。いろいろあったけど、元気だった頃、アルツハイマーが母の命を脅かしていない頃、確かに幸せだったと。そして最後は小さな病院で息をひきとったけど、良心的な看護を受け、先生の治療を受け、看取られ、そして見送られ、幸せだったのだと。

それは自分が思い込んでいるのではなく、漠然と考えて浮かんできたことだった。




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