見出し画像

写真とわたし

接点がなにもないようで、ずっとハッシュタグに入れてきた「写真」の文字。

「なんでだろう?」とお思いの方も多いのでは?(居なかったらごめんなさい)実はタイトルの上の挿絵の写真は全て自作したものなんです。カメラやiPhoneを持って歩いて撮ったものなんです。最近では自家製の野菜はiPhone12 miniで全て撮っているのですが、やはり撮りやすいのは結構使い慣れているミラーレスのカメラでいま一番の愛機。2018年5月に我が家に来ました。

一眼などで写真撮り始めたのは、結構長くって30年近く撮っています。大きな声では言えないのですが、、、、、。長いです。それでもわからないことだらけ。難しいことだらけ。病気を発症したときは、流石に撮ってはいなかったのですが、病院のカウンセラーに勧められて写真は少しずつやってはいました。写真の「写」の字も知らないような同世代のカウンセラーに「アートだ、撮れ撮れ!」と言われ、撮らされていました。

わたしも病気が酷かったので、正直なにをどう明確に被写体と向き合うのかすらも分からずに、こころが許すまま、シャッターを下ろしていたのを思い出します。そのころはデジタルの一眼レフで撮っていたし、液晶画面に撮影と同時に写らないと言う代物を使っていたので、なにが楽しいのか、そのカウンセラーにカメラを持っていって、質の悪いコピー用紙にプリントして貰って、それを眺めていたのを思い出します。

カウンセラーは「アートだ」と言うけど、わたし自身は正直、「なにを撮っているんだろう?」と言った感じしかなくて、写真学校で習ったような、たくさんの写真を焼いて、選んで、それらを学校に持っていって講評を受けるような流れがないと、いまひとつピンとくるものがなくて、撮ったものを小さな液晶画面で眺めながら、「調子狂うんだよなぁ。」と考えていたのを思い出しました。

いまでは慣れてしまって、小さな液晶画面見ながら撮影。撮ったものを即座にチェックし、家に帰ってきて、パソコンの画面でチェック。などの順序立てができるのですが、そのときはじぶんですら、「なにやっているんだろう?」と言う焦燥感しかなく、非常にもどかしい思いをしていました。

そんなでも写真は好きでした。でもしばらく撮り進めていくうちに、カメラで撮ると言う行為も好きだったし、以前よりものと対峙して、よく見て、考えて、シャッターを下ろすまでの瞬間に、一番良いアングルや画角を考えると言うことができるようになったのが不思議だった。きっと時間が解決したものもあったのでしょうね。

健常者のときの撮影は、直感とカメラの操作とそのあとのベタ刷りの写真の選考、そして何枚も焼いて、その中からさらに選考。そして昼の仕事と夜の写真学校。そんな生活がベースで2年間。じぶんは写真の仕事をするんだと思っていたのだけど、、、。人生甘くないなぁって。後になって思います。

それでもなぜか写真は続けている。それに以前より撮りたいものが明確になった気がする。きっとカメラのそばにいるのは変わらないから。写真を仕事にできなくても、写真がきっと下手くそでも好きなものだから続けている。これは「No Life, No Camera.」なのである。写真学校の落ちこぼれがなに言ってんのと言われそうだが、そうなんだ。カメラがなければ、こんな風に生きていなかったと思う。この経験はわたしにとって、財産なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?