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病気のこと

思い起こしてみれば、闘病歴が長い。

統合失調症になってから21年経つ。きっかけは人間関係だった。当時もっとも近しい人の裏切りにあい、精神的にきたしてしまったのが遠因だった。元と言えば、いろんなことがストレスとなり、上手に生きていくことが出来なかったのが原因。

何度も仕事を変え、その時付き合う友人も変えてきた。でも上手くいかなかった。

病気になった当初は、本当に消えて無くなりたいくらい、生きているのが辛かった。でもわたしは荒れ狂う波間に漂う木の葉のように、顔だけをプカリとだし、嵐の過ぎ去るのを待つ遭難者の心境で、その時期を越えようとしたのだ。だめだ、だめだと言いながら、闘病始めはなんとか生きていた。

激しい幻聴があった訳ではない。これだと分かるような幻覚もなかった。見た目も普通の人と変わらなかった。でも辛くて、気付くと東京駅の横須賀・総武線のホームに立っていて、どこに行こうとしているんだと泣き出しそうになっていたじぶんを責めていることがあった。どうしても思い出せないのだけれど、当時のこと、そしてどうやって帰ったか、その後の記憶がやけに曖昧になり思い出せないのだ。

わたしは心療内科のクリニックに通い始めるのだけど、一向に不安定な心は治らずに、ある時の過呼吸の発作後、入院病棟完備のある大きな精神単科病院に通うことになる。そこに通い始めて3年目で統合失調症を告知されることになる。きっとずっとずっと昔から、具合は悪かったのだと思う。ストレスに弱く、人付き合いが苦手、生活のバランスが非常にとり辛い性格なのだ。

若い頃は、しっかりしている自分と、混乱してしまう自分とが共存していたようだ。あと運もあるんだと思う。いざと言うとき、運良く難を逃れることがたびたびあった。でもその運も尽き、暗闇のなかに落ちてしまうような人生になったとき、はっきり自分はおかしい。どこか可笑しい。そう思っていた。いまなら困ったとき逃げると言う選択肢があることに気づいているが、その時は立ち向かうことしか考えていなかった。

立ち向かえば、人生なんとかなるんじゃないかって、思っていた。あと「旅」が好きだった。自分を肯定できるのが、「旅」であった。見知らぬ土地に行き、そこの文化に触れる。日本の常識、没個性的な世界観から、逃れられるような気がしていた。そして自分の生き方、性格、気質、それら全てが個性なんじゃないかと。まさしく自分を肯定しようと、躍起になって、自分探しの旅に何度も出かけた。その度に自分のなかに自信を持つことができて、本来の自分を取り戻したような状態を得ることができた。できることはなんでもした。ダイビング、海外旅行、知らない街での移住生活、写真撮影。そのときできる限りの気ままな生活。

わたしの周りのひとは自由で気ままだと、わたしのことを思っていたのかもしれない。でも大きな何かといつも闘っていた。安定した生活ができない自分。継続ができない自分。ストレスに弱い自分。肯定し切れない自分。そんな不出来な自分と闘っていた。子供の頃から言われていた。「変わっているよね。」と。でも「変わっている」の言葉は、「可笑しい」ではなくて、「特別」と言う言葉に変換して受け入れようとした。そのため、常に新しいことを何かしていないといけない自分になってしまっていた。それが病院に通う前の自分だった。

わたしはいつしか人間関係と言うものを、避けて通るようなっていた。来るものは拒まなかったけど、去るものも追いかけはしなかった。合わないなら、それで仕方ないと思っていた。それは自分を傷付けないための、防御策でもあった。そこで考えてバランスよく人と付き合うことができれば良かったけど、わたし自身、他人との距離感を保つのが非常に下手だったし、じぶんに近寄ってくる人を選ばなかった。いまなら危険だから、少し距離を置いてなどと思うのだけれど、、、

21年間、薬漬けの毎日だった。初めのうちは薬の力が強いのと激しいストレスがあった為か、眠ってばかりいた。そのうち、薬に対する耐性もついて、起きていることもできた。でも他人はどれだけ自分が大変な病気をしてきたかが分からない。こうですと公表する訳でもないし、ストレスがどんなに自分に負担を与えているかも分からない。病気が軽くなり障害者雇用で働いてた時は、職場でいじめにもあった。病気になったことのない人には、この苦しみも分からないと気付かされることもたびたびあった。

障害者雇用。これは特に派遣スタッフとか、パートスタッフにとっては、えこ贔屓の塊に見えたらしく、口も聞いてもらえないとか、具合が悪くて休んだ次の日には、いつもは話しても貰えないその人に「休まれるとハッキリ言って迷惑」とまで言われたりした。これは自分がサボりたいからサボっている訳ではなくて、できればわたしも休みたくない。色々思いは込み上げたが、そのとき自分がなす術もなく、彼女に謝っていた。具合が悪いのに、なぜ謝らないといけないのだろう。そう思った。

でもこうも思った。会社から次の年の契約が貰えなくなるその時には、少しだけど病状は悪化していた。差別、偏見。そして親の介護。そんなストレスの中で、自分が見えなくなっていた。だけど父と母の介護があったから、わたしは生きていることが出来たんだと。会社を辞めて、孤独だけど自由になった。

いまは少しだけ思う。仕事をしていたかった。会社と言う組織の中で守られていたかった。ただ誰も守るひとは現れなかったし、少ない収入も絶たれた。ただ心の底から、これはその代償の自由だと感じる。だけど寂しい自由だな。

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